マリナーズのイチローが「天才」と呼ばれるのは、こうした芸当をいとも簡単にやってのけるからだろう。
 3月7日(現地時間)のジャイアンツ戦、イチローはサウスポーのスコット・エアーから右中間スタンドに特大アーチを架けた。打球はきれいな放物線を描き、ピオリアの青空に溶けていった。打ったのは3打席目、カウント0−1からのストレートだった。
 試合後、イチローは顔色ひとつかえずに言った。
「狙って打ってますから」
 そして、こう続けた。
「ちょっと角度をつけて打ってみようと思ってね」
 ホームランは狙って打つもの――イチローはかねて、そう公言している。要するに「ホームランはヒットの延長」というのは誤りで、ホームランを打つにはホームランを打つための打法が必要だということだ。
 そして、その際のキーワードが「角度」なのだ。これには2つの意味がある。バットのヘッドを入れる角度、そして打球を上げる角度。この2つの角度を自らの意思と工夫でつくらない限り、白球はフェンスを越えない――イチローはヤンキース松井秀喜にそう伝えたかったに違いない。
 すなわち先の言葉はメジャーの先輩イチローから後輩への“遠距離恋愛”ならぬ“遠距離レッスン”あるいは“遠距離アドバイス”でもあったのだ。
 このアドバイスがきいたのか、11日後のタイガース戦で松井は10試合ぶりにホームランを放った。エキシビションゲーム3本目のホームランは推定飛距離125mの特大アーチだった。
 4打席目、ライトハンダー、ガリー・ノッツの90マイル(約144km)のストレートを完璧にとらえた。打球はきれいな放物線を描いて右中間スタンドに消えた。ボールをぎりぎりまで引き寄せ、鋭い腰のターンで弾き返した。彼本来のバッティングだ。
 調子が悪い時には、スイングの始動が早くなり、いきおい、打球はライナー性のものとなる。打球が飛ぶ方向も右中間ではなくライト正面、あるいはライト線になっていただろう。
 この3本目のホームランを見て、やっと私の不安は解消した。これでやれる、と確信した。打撃成績も打率3割4分1厘、3本塁打、10打点(3月18日現在)にまで上昇した。レギュラーシーズンに入ってもアクシデントに見舞われさえしなかったら、間違いなく松井は活躍するだろう。
 そしてシーズン終了後には野茂英雄(ドジャース)、佐々木主浩(マリナーズ)、イチロー(同)に続く日本人4人目のルーキー・オブ・ザ・イヤー受賞式のインビテーションカードがクラブハウスに届くはずだ。

 目の覚めるような弾丸ライナーのホームランで松井秀喜のメジャーリーグ人生はスタートした。
 2月27日、ヤンキースのキャンプ地タンパ、レジェンズ。フィールド。対レッズ戦の第2打席。サウスポー、ジミー・アンダーソンの85マイル(約136km)のストレートを叩くと、打球は低い弾道のままライトスタンドのフェンスを越えていった。
 サウスポー、しかもフルカウントからの一撃ということで、松井の株価は一気に高騰した。しかし私は「打つならここしかない」と思っていた。
 なぜなら、松井は2ストライク後、無類の勝負強さを発揮するバッターである。それは昨シーズン、彼が放った50本のホームランのうち、2ストライクをとられてからのホームランが19本を数えたことで明らかだろう。
 過去、日本には55本のホームランを記録したバッターが3人いる。王貞治(64年)、タフィ・ローズ(01年)、そしてアレックス・カブレラ(02年)だ。この3人の2ストライク後のホームラン数は王が13本、ローズが14本、そしてカブレラが16本。ホームラン数では松井を5本も上回りながら、2ストライク後の本数は、いずれも松井のそれを下回っているのである。
 このデータは何を意味するか。松井は「追い込まれてからも打てる」というより「追い込ませておいてから打っている」と解釈すべきだろう。すなわち松井は、わざとピッチャーに追い込ませておいて、決め球を待ち伏せし、狙い打っていたということだ。
 巨人の4番に座ってからというもの、松井に真っ向から勝負するピッチャーはほとんどいなくなった。ボールかストライクか、ぎりぎりのコースでカウントを整え、できればボール球を打たせる。最悪の場合は一塁に歩かせても可――そんな攻め方がゴジラに対するセオリーとなった。
 4番である以上、指をくわえて待っているわけにはいかない。では、どうすればピッチャーは自らに勝負を挑むか。松井は罠を仕掛けた。極端にいえば、先にストライクを2つくれてやる。ストライクが先行すれば、ピッチャーは欲を出す。ゴジラを打ち取ろうとその状況で最高のボールを投げてくる。そこでピッチャーが選択する最高のボールを読む。つまり松井は「追い込ませる」ことで逆にピッチャーを「追い込んで」いたのだ。
 さらに付け加えておけば、松井はサウスポーを“お得意様”にしている。それを裏付けるデータがある。昨シーズン、松井は左投手から3割6分1厘、右投手から3割1分1厘と、数字だけ見れば5分も右投手より高いアベレージを残していたのだ。
 カウント2−3、しかもサウスポー。普通の左打者なら、もっとも苦手とする状況だが、先に証明したように松井の場合はそうではない。いや、むしろ得意にしている。ゆえに、あの場面でのホームランは、いわば松井にとっては必然の帰結だったのだ。
 松井はその4日後、ブルージェイズのエバン・トーマスからエキシビションゲーム第2号を放ったが、これも松井本来の弧を描くようなアーチではなかった。1本目よりは高い軌道を描いたが、打球はまるでミサイルのようにあっという間に右翼席に突き刺さった。
 ヤンキースのジョー・トーレ監督は「マツイはラインドライブヒッターだ」と評した。コンパクトなスイング、右にも左にも打ち分けるバッティング技術、高速の打球……もちろんトーレは“ラインドライブヒッター”という言葉を褒め言葉として使ったのだろうが、反論させてもらえば松井はこの島国が生み出した生粋のホームランバッターである。おそらく、これから何人ものラインドライブヒッターが海を渡るだろうが、メジャーリーグの名だたるパワーヒッターにも引けをとらない飛距離を誇るホームランバッターの挑戦となれば、松井に続く名前をすぐに口にすることはできない。

<この原稿は2003年5月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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