ボクサーにとって必要なものは何か。スピード、打たれ強さ、パンチ力…。どれも必要だが最も大切なのは「距離感」ではないか。さる18日、10度目の防衛に成功したWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積こそは「神の距離感を持つ男」である。
 挑戦者はニカラグアのアルバロ・ペレス。リズミカルなボクシングは、逆に言えばそのリズムさえ把握できれば、これほど倒しやすい相手もいない。長谷川は3ラウンドまでに挑戦者のリズムを把握する作業を終了した。「一定のリズムの中で重心が落ちる瞬間がある。そこを狙えば必ず倒せる…」
 そして迎えた4ラウンド。2分30秒過ぎ、チャンピオンはまずワンツーの左を軽く相手の顔面にヒットさせ、射程を確認した。浅い当たりではあったが、相手はそれなりのダメージを負っているように感じられた。予行演習でKOの手応えを掴んだ。しかし、ここで長谷川は一呼吸置く。なぜ一気に攻め込まなかったのか。

 本人の解説。「パンチを打たないで前へ出ると、相手はチャンスとばかりに焦って打ってくる。その前にパンチをもらっているから余計に焦るんです。そうなると必ずスキが生まれる」
 長谷川が用意した周到な罠にニカラグア人はまんまと落ちた。焦って前へ出るミクロのタイミングを見計らって絵に描いたようなレフトをアゴの先端に突き刺した。前のめりに崩れ落ちた挑戦者はピクリとも動かなかった。

 当たり前だが、相手を倒せる距離の中に身を置くということは、自らも倒されるリスクを負う。長谷川は危険であるがゆえに身震いするほど刺激的で甘美な距離を人工的につくりだす。この肉汁がしたたり落ちるような、贅沢極まりない空間に身を置くカタルシスを、不世出のチャンピオンはどう捉えているのか。「自分のパンチだけ当たって相手のパンチが当たらないゾーンがある。“神の距離感”というものがあるとすれば、きっとそのことなんでしょうね」

 長谷川穂積のボクシングは比喩ではなく、瞬きすら許されない。彼の作品はどれも衝撃的だ。フランスのシュルレアリスム作家アンドレ・ブルトンは『ナジャ』でこう書いている。<美は痙攣的なものだろう。それ以外にはないだろう>。ペレス戦は視線が痙攣するくらいの名作だった。

<この原稿は09年12月23日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
◎バックナンバーはこちらから