田中角栄の元秘書で政治評論家の早坂茂三さん(故人)と今はなき「諸君!」という月刊誌で対談したことがある。タイトルは「司令塔の条件」。いきおい話は「加藤の乱」に及んだ。加藤紘一氏が盟友の山崎拓氏と組み、“森(喜朗)おろし”をはかった例のクーデター未遂事件だ。
 私は言った。「宏池会というお公家集団で、いかにも度胸のなさそうな加藤さんが決起したという意外性はあった。しかし、最後に自ら兵を引いて涙を流した。傍らの谷垣禎一さん(現自民党総裁)がボロボロ泣いて大将を引き止める有様。あれを見て、この人が潰れて心底良かったと思った。こんな人に総理は任せられない。あそこで“お前たちは先があるから、俺一人で討ち死にする”と言って本会議場で不信任案を投じれば、下も付いていったはず。負けるにしても美学というものがあるはず」。黙って聞いていた早坂さん、「その点、あなたが書いていた野茂英雄の話はいいね。ああいう男が世の中を変えるんだよ」と言って、独自の英雄論を披露した。有意義な時間だった。

 野茂が海を渡る前、球界のある実力者が、野茂に渡してくれと私にこんな言付けをよこした。「事を急ぐ必要はない。今、海を渡ってもメジャーリーグはストライキの真っ最中だ。行っても途方に暮れるだけだ。もう少し待ちなさい。いずれ、キミの望むような時代がくるのだから」
 実に常識的な判断だ。この御仁は、そうやって世を渡ってきたのだろう。それもひとつの生き方だ。否定はしない。
 しかし男には一生に2度や3度、大きなリスクを取ってでもやらなければならないことがある。野茂は「男には曲げられないものがある」と言った。逆風の中、人生をかけて飛び立ったからこそ彼はストライキ明けのMLBに客を呼び戻す救世主となったのである。

 貴乃花親方の一門を離脱しての理事選出馬を全面的に支持する。一門という名の日当たりの良いバス停で順番待ちしていれば、いずれ確実に彼の時代はやってくる。しかし派閥順送りの受益者は、その時点で、もはや改革者ではない。
 ともすれば密室、談合色の濃かった大相撲の理事選に世間の注目が集まっただけでも親方のとった行動には価値がある。国民の支持なくして国技は立ち行かないのだから。

<この原稿は10年1月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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