数ある格闘技の中で、最も短時間で勝負のつくのが相撲である。参考までに言えば、九州場所千秋楽の中入り後、一取組あたりの平均所要時間はわずか9.4秒だった。「相撲は立ち合いがすべて」といわれる所以である。まさしく、攻撃こそ最大の防御、立ち合いでの“待った”の多さは、スポーツの種類こそ違うが陸上100メートル走のスタートのフライングに匹敵する。ともにミクロの単位でも相手より早く立ちたい、出たいという意識がフライングを生む原因と考えられる。
 15日間が終わってみれば、10勝5敗。貴花田は初の2場所連続2ケタ勝利で、初場所に史上最年少大関獲りの夢をつないだが、九州場所初日から4連敗を喫した時には、勝ち越しも困難なように思われた。少なくとも14勝1敗で2度目の優勝を飾った秋場所と比べれば、連敗中の貴花田は別人のように見えた。
 にもかかわらず、つまずきの理由を訳知り顔のスポーツキャスターやコメンテーターは揃いも揃って、女優・宮沢りえとの“婚約フィーバー”に求め「技術よりも精神面に問題がある」「プレッシャーに負けている」と口を揃えた。日本人好みの精神論は、いかにも耳によく馴じむが、そうしたファジーな結論をさも真実のごとく吹聴するのはいただけない。技術面で確かなウィーク・ポイントがあるからこそ、あの足腰のいい貴花田が4連敗もしたと考えるべきではないのか。

 結論から先にいえば、天才児・貴花田の唯一のウィーク・ポイントは立ち合いにある。さらにいえば、貴花田の黒星は、そのほとんどが立ち合いに失敗したためのものであると考えられる。
 本論に入る前に、九州場所初日からの4連敗を振り返ってみたい。
 初日、久島海戦。4勝5敗と分の悪い相手に、いきなり立ち合いで突っかけてしまう。出遅れまいという意識が、反対に気合いを空回りさせてしまったのだ。2度目、何とか呼吸を合わせて立ったものの踏み込みが浅く、スピードもない。それでも相手の上手を切り、おっつけながら土俵際まで寄っていったあたりはさすがだったが、土壇場で捨て身の小手投げをくってしまう。立ち合いの甘さが、命取りとなってしまったのだ。
 2日目、寺尾戦。軽快な動きに翻弄されまいとしてか、完全に立ち合い、受けに回ってしまう。どうにか左上手を引き、右四つに持ち込んだものの、攻めきれない。寺尾の下手ひねりをくうと、もんどり打って土俵下に転げ落ちた。攻めが後手後手に回ってしまったことが最大の敗因だった。
 3日目、大翔鳳戦。出足はまずまずだったが、頭の位置が低過ぎた。腰も高く、相手の突き押しに合わせるような相撲。左顔面に張り手をくい、頭を押さえ込まれ、最後は上手出し投げで土俵に這った。
 4日目、三杉里戦。相かわらず、フワッとしたスピードのない立ち合い。突っ張っても、足が前へ出ていかない。30秒近い長い相撲になったが、不意のはたきこ込みをくうと、バランスを失ってばったり両手をついた。

 初優勝の92年初場所、2度目の優勝の同年秋場所と比べて、九州場所、4連敗時の貴花田は明らかに立ち合いのスピードに欠けていた。自分の呼吸で立つことができず、相手に合わせて立っていた。しかも手と足の位置が近く、それがために立ち合いの上体の角度が60度よりもさらに広くなっていた。これでは衝撃力を最大値で刻むことができない。
「4連敗はすべて立ち合いの失敗によるもの。窮屈な立ち合いでは低く当たることができない。また、頭から行こうとする意識が強過ぎるあまり、髪の生え際ではなく脳天で当たっていた。脳天で当たっても威力はないし、下手すると指の先までシビれてしまう。普通、いい当たりをしたものは生え際がすり切れて赤くなっているものなんだけど、前半戦の貴花田はそんな痕跡が見られなかった」(元関脇・蔵間)

 現在、貴花田は2つの立ち合いを使い分けている。自分よりも大きな力士に対しては、仕切り線より20〜30センチ後方から、頭を下げてダッシュするようにぶつかる。また自分より小さな力士に対しては落ち着いて立ち、双手突きで相手の動きを止めにかかる。九州場所でも中盤以降は、この2つの立ち合いをうまく使い分け、白星に結びつけた。
 仕切り線から離れて立ち、ダッシュするようにぶつかる独特の立ち合いを自分のものにしたのは、2度目の優勝をとげた秋場所である。現在、幕内力士の平均体重は150キロ弱。130キロを少し超える程度の貴花田が、これらの巨漢力士の突進を止めるには、この方法しかなかったというわけだ。また、前傾姿勢で飛び込むことによって、腰高の欠点も是正された。小錦戦、曙戦では胸元に額から飛び込み、終始、主導権を与えずに攻め切った。「出足が甘い」とかねて指摘されていた貴花田は、立ち合いの位置を後ろに下げることによって、この欠点をとりあえず克服してみせたのである。

「立ち合いに1歩、足を前へ出せば踏み込み、2歩目まで出してはじめて出足といえるわけだが、この出足が秋場所ではじめて身についた」(相撲評論家・三宅充氏)
 秋場所、左足から出た9番はすべて次の右足もスムーズに前へ出ている。
 しかし、喜ぶのはまだ早い。足の運びにはまだまだ改良の余地が残されている。
「左足から細かく出た時には右足もついてくるが、左足を大きく踏み出すと右足がついてこない。反対に右足から出ると左足がついてこない。かつて栃木山は“一歩は30センチ以内にしろ、スリ足でススッと行くのがいい”と言っていたが、まだまだ貴花田はそこまで行っていない。足の運びだけ見ればスリ足で出る琴錦の方がうまい」(三宅充氏)

<この原稿は1993年1月号『月刊現代』に掲載されたものです>
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