1980年代、男子マラソンを牽引してきた2人の男が“和解”したとスポーツメディアが伝えていた。
 2人とは瀬古利彦と中山竹通。当時はエリートと雑草の代表格、“宿命のライバル”と呼ばれたものだ。
 2人の関係が“悪化”したきっかけは1987年に行なわれたソウル五輪代表選考を兼ねた福岡国際マラソン。このレースでの日本人上位3名がソウル五輪の日本代表に選出されるとの通達が事前になされていた。
 しかしエースの瀬古がレース前に左足首を痛め、欠場。いわゆる“瀬古救済策”として、翌年3月のびわ湖毎日マラソンが急遽、代表選考に加えられた。

 これに猛然と反発したのが中山である。彼は私にこう語った。
「マラソンランナーなら誰でも人にいえないケガのひとつやふたつはあるわけです。それを皆、隠して一本勝負に挑んでいるのに、ひとりだけ出てこない。それは悲しい行為なんですよ」
 中山は他の選手の思いも代弁していた。
 しかし、陸連の中には中山のこうした歯に衣着せない“正論”を快く思わない者もいた。
「あんな、どこの馬の骨かわからないヤツが……」と悪しざまに言う者もいた。

 なぜなら学生時代からエリートランナーとして鳴らし、日本長距離界の輝ける星である瀬古に対し、中山は長野の無名校出身のアウトサイダー。強化方針を巡って対立し、所属先も2度変わった。
 どこの世界でもそうだが非エリートの新興勢力ほど権力にとって煙たい存在はない。当時の中山は文字通り、叩きがいのある“出る杭”だった。
 こういう場合、この国のジャーナリズムは大抵が権力の側につく。それはスポーツに限った話ではない。メディアの集中砲火を浴びたホリエモンなどはその典型だろう。

<この原稿は「フィナンシャルジャパン」2010年4月号に掲載されました>
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