「誤審もサッカーのうち」
そんなことを言っている時代は、もうとっくに終わったのではないだろうか。
誤審は試合をブチ壊すのみならず、サッカーの魅力をズタズタにする。
ベスト8進出を賭けたドイツ対イングランド戦がそうだった。
0対2から1点を返した直後の前半38分、イングランドのMFフランク・ランパードが放ったシュートはクロスバーを叩き、ゴールの内側に落ちてバウンドした。
ところがウルグアイ人主審のホルヘ・ラリオンダはゴールを認めず、流れは再びドイツに傾いた。
後半、前がかりになったイングランドに対し、ドイツはカウンターアタックを仕掛け2点を追加し、4対1で勝利した。
終わってみれば3点もの大差がついたが、もし2対2のまま推移していたら、試合はどうなっていただろう。
イングランドはオール・オア・ナッシングの攻撃を仕掛けなかったに違いない。試合はさらに緊迫感を増し、ワールドカップ史上に残る名勝負に昇華した可能性もある。
そう考えると、返す返すも残念な誤審だった。
もっとも因果は巡るもので、1966年のイングランドW杯決勝では開催国のイングランドが誤審の恩恵に浴している。
対西ドイツ戦。2対2で迎えた延長前半11分、イングランドのジェフ・ハーストが放ったシュートはクロスバーに当たり、ほぼ垂直に落ちた。
スイス人主審は線審に確認をとった上で、これをゴールと認め、さらにもう1点を追加したイングランドが悲願の初戴冠を果たした。
ドイツ人からすれば「44年前の借りを返してもらった」ということなのだろうか。
しかし誤審が原因による因縁の物語というのは、どう考えてもバカげている。
だからこそFIFAは「ゴールライン・テクノロジー」の採用を検討してきたのではないか。
そのひとつがICチップを内蔵した「スマートボール」の導入である。
ボールが完全にゴールラインを越えた場合、主審にシグナルが送られるという“すぐれもの”で、05年にペルーで行なわれたU−17世界選手権で初めて採用された。
審判の評判は悪くなかったが、誤作動も指摘され、この計画は途中で頓挫した。
スマートボールがダメならゴール裏に一台、カメラを置けばいいだけの話だ。なぜ、そんな簡単なことができないのか。
これだけ誤審が相次いでいるのなら、なおさら“化学の眼”を信用すべきではないか。
試合の中身よりもレフェリーのメンツの方が大事だとでも言うのだろうか。だとすれば永遠に誤審はなくならないだろう。
ここへきて「審判5人制」の話が持ち上がってきているという。欧州の一部カップ戦で既に試験導入されているが、足の止まった審判が2人、デンとゴールライン後方に構えている姿は、あまり美しいとは思えない。
それに審判を何人増やそうが人間の目には自ずと限界がある。
ミスを犯したウルグアイ人はこう語っていた。
「審判も過ちを犯す人間。試合の一部だ」
そのとおりだ。審判だろうが誰だろうが、人間はミスを犯す生き物である。
そのためにテクノロジーの力を借りるのではないか。
ウルグアイ人審判のコメントを読むと「過ちを犯してどこが悪い」と開き直っているようにもとれる。
FIFAのゼップ・ブラッター会長にも責任はある。「ゴールライン・テクノロジー」の導入に終始、消極的で、過去には「ビデオ判定はサッカーから勢いを奪う」と語っていた。
ビデオの導入が、なぜサッカーから勢いを奪うのか。
確認するにしても5秒か10秒あればいいだけの話だ。
と、このような理由から私は“科学の眼”の導入を支持するものだが、何でもかんでもテクノロジーに頼れ、といっているわけではない。
あくまでも入ったか入っていないか、すなわちゴールの判定に限定すべきだと考える。
そうでなければゲームが混乱してしまう。イエローカードかレッドカードの見分けなどは、むしろ「人間の眼」の方が適しているような気がする。
あくまでも中心は「人間の眼」、それを「科学の眼」がどうサポートするかを考えるのが建設的な姿勢といえるだろう。
<この原稿は2010年7月23日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>
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