日本サッカー協会の新会長に就任した小倉純二は協会きっての国際派である。FIFA理事を8年間にわたって務めている人物だ。
 その意味で2022年W杯開催を目指す日本にとっては、うってつけのリーダーといえるだろう。

 温厚な人柄ながら、その交渉力は折り紙付きである。それを如実に示したのが05年6月、日本がドイツW杯出場を決めた際の北朝鮮との「第三国開催、無観客試合」だった。
 その2カ月前、北朝鮮協会はホームでのイラン戦で一部観客が起こした暴動を煽るという失態を演じていた。それを報じる現地の新聞をFIFAのゼップ・ブラッター会長に手渡したのだ。
 これは効果があった。ブラッター会長は北朝鮮国内での日本戦は危険と判断し、第3国のタイが代替の開催地に選ばれた。しかも無観客。
 日本にとってアウェー戦を中立地のタイで戦うのと異様な雰囲気の北朝鮮で戦うのとでは天と地ほどの差がある。結果、日本は2対0で北朝鮮を破り、ドイツ行きを決めたのである。

 日本が初めてW杯出場を決めたのは1998年のフランス大会だが、小倉氏はこれにも大きく貢献している。
 周知のようにイランとのプレーオフに勝ち、悲願を達成した場所はマレーシアのジョホールバルだった。地名を冠して後に“ジョホールバルの歓喜”と呼ばれるようになった。
 この時、早々に1位突破を決めた韓国の背中を遠くから見つめながら、日本は最終戦までUAEと2位争いを演じていた。もう一方のグループではサウジアラビアとイランが激しい首位争いを展開し、最後までどちらがプレーオフに進出するか読めない状況にあった。
 ここである情報が日本協会に飛び込んでくる。サウジアラビアが2位になった場合、プレーオフの開催地としてペルシャ湾に浮かぶ島国のバーレーンを希望するというものだ。
 サウジアラビアであれイランであれ、中東のチームに変わりはない。彼らにとってバーレーンは地元みたいなものじゃないか――。

 そう案じた小倉氏は長沼健会長(当時)の了解を得て、急遽、FIFAの本部が置かれるスイスのチューリッヒに飛んだ。そしてFIFA事務総長(当時)のブラッターに直談判した。
「バーレーン案なんてとんでもない。日本がプレーオフに進出した場合、中東地域との中立地帯はマレーシアかシンガポールだ」
 最初、ブラッターは小倉の提案に乗り気ではなかった。「地図で見たら日本とマレーシアはすごく近いじゃないか」。そう言って反発した。
 ここで、あっさりと引き下がったら、はるばる日本からやってきた意味がない。小倉は日本からマレーシアへは飛行機で7時間かかることやアジアサッカー連盟(AFC)の本部がマレーシアにあり、だからプレーオフの地にふさわしいことなどを丁寧に説明し、ブラッターを翻意させることに成功したのである。
 歴史に“れば”や“たら”は禁句だが、バーレーンでのイランとのプレーオフとなれば、日本はかなり困難な戦いを余儀なくされていたはずだ。
 もしイランに負ければ、オセアニア1位のオーストラリアとホーム&アウェーによる大陸間プレーオフに回らなければならず、フランスへの道のりはさらに過酷なものになっていただろう。

 2022年大会の開催地は12月2日に決定する。まだ3カ月以上ある。立候補しているのは日本、韓国、カタール、オーストラリア、アメリカの5カ国。伏魔殿たるFIFAで磨き上げた小倉の交渉力に注目が集まる。

<この原稿は2010年8月13日付『電気新聞』に掲載されたものです>

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