新日本プロレスなどで活躍した元プロレスラー山本小鉄の訃報に接した巨人・原辰徳監督は「山本小鉄さん? ヤマハ・ブラザーズですよ」と語ったという。
 そうなのだ。我々の世代にとって山本小鉄と言えば「ヤマハ・ブラザーズ」だ。小兵ながらムキムキの筋肉を武器に気風のいいファイトを展開し「人間爆弾」の異名をとった。
 1960年代後半、同じく小兵の星野勘太郎とコンビを組んだ山本小鉄は「ヤマハ・ブラザーズ」のタッグネームで米国マットを席捲した。小柄ながらパワフルで高性能、しかも疲れ知らずの二人のファイトに米国のプロレスファンは、日本から輸入されたヤマハのオートバイを重ね合わせたという。
 それまで米国マットで活躍する日本人、日系人レスラーといえばヒールが相場だった。その典型がグレート東郷だ。「血はリングに咲く花だ」が口ぐせで、罵声を浴びせられるたびにヒール人気は高まり、高級車や豪邸を手に入れた。

 戦後間もない頃、アメリカの中でもテネシー州やテキサス州など南部では日本人に対する差別意識が強く、グレート東郷が反則技を繰り出すたびに会場は「リメンバー・パールハーバー」の大合唱に包まれたという。
 余談だが、この頃、日本人や日系人の多くのレスラーが「トーゴー」や「トージョー」を名乗っていた。言うまでもなくトーゴーは東郷平八郎、トージョーは東條英機からとったものだ。反日感情を逆手に取って金儲けに利用したのだから、したたかといえばしたたかだ。

 山本小鉄や星野勘太郎が米国のマットで活躍したのは、この随分後のことだ。ヒールとはいってもグレート東郷のようなあくどい真似はあまりやらなかった。日本人に対する敵意も下火になっていた。
 むしろ「ヤマハ・ブラザーズ」というタッグネームには終戦後、力強く復興を遂げる日本のシンボルといったイメージがあり、それに対するアメリカ社会の寛容な視線を感じさせる。

 それから40数年。米国はドル安に導くため金融緩和に舵を切り、輸出振興による不況脱出に活路を求める。第2の「ヤマハ・ブラザーズ」はもう生まれないかもしれない。

<この原稿は10年9月1日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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