「今になって思うんです。あの試合は何をやっても負ける試合だったんじゃないかと…」。11月26日に再起戦(WBC世界フェザー級王座決定戦)が決まった元WBC世界バンタム級王者・長谷川穂積は吹っ切れたような表情で切り出した。
 5カ月前の4月30日、長谷川はフェルナンド・モンティエルに4回TKOで敗れ、11度目の王座防衛に失敗した。この回、残り10秒を告げる拍子木が鳴った瞬間、舞台は暗転した。メキシコ人の左フックをくってぐらつき、ロープ際で連打を浴びた。腕がロープにからまり、脱出できない不運も重なった。
 実はこの試合の1カ月半前、長谷川は歯医者にかかり、親知らずを抜いた。「これ抜きましょか?」「えっ、そんなもんなんですか?」。戸惑う長谷川に歯医者はたたみかけた。「みんな、だいたい抜くけどね」「だったら、そうしてください…」。嫌な予感がした。まさか、それが現実になろうとは……。

 初回、モンティエルのレフトをくってアゴに激痛が走った。運が悪いことにパンチが命中した箇所はちょうど親知らずを抜いた部分だった。「知り合いに言われたんです。(親知らずの跡が穴になって)今一番、(骨が)折れやすい状態だから気をつけなって…」
 ラウンド終了と同時にセコンドの山下正人会長に訊いた。「めっちゃ痛いんですけど、奥歯、とれてないですか」「いや、何ともなっとらんぞ」。ゴングが鳴る。体内を巡るアドレナリンが痛みをかき消した。
 そして4回、再び同じところに被弾した。「きれいに同じところ。あれで(アゴの骨が)完全に折れたんだと思います。要するに親知らずを不用意に抜いた時点で僕の負けは確定していたんですよ」

 ただし、と元王者は続けた。「もし腕がロープにからむことなく、あと8ラウンド戦っていたらアゴに線が入っただけの単独骨折では終わらんかった。最悪の場合、粉砕骨折してたかもわからない。そう考えると、僕が言うのも何だけど、あれはいい負けだったんじゃないかと…」
 手術を受けたアゴ骨の亀裂箇所にはチタンのプレートが今も埋まっている。「引退するまでは入れとくつもりです」。肉体の一部と化した金属物は単なる補強材ではない。失敗を忘れないための己への戒めを込めたお守りでもある。

<この原稿は10年9月29付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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