二宮: 岡田武史監督の後を受けたのがフランス人のフィリップ・トルシエ。川淵さんとは“天敵”の関係でした。
川淵: アハハ。だけど、彼には愛嬌があるんだよ。正面切ってよくケンカもしたけど、不思議と憎めないところがあったね。

二宮: トルシエは最近出版した本の中で、川淵さんのことをこう書いています。
<仕事と個人的な好き嫌いとは、やはりまったく別の話なのだ。川淵さんのこともそれと一緒で、「彼を愛しているか?」と聞かれたら、そこまでは言えない(笑)。けれども、お互いに尊重し合う気持ちはあった。>(『トルシエの眼力』徳間書店)
<実は川淵さんと一緒にゴルフに出かけたことがある。私はゴルフがとても下手で、彼はプロ並にうまい。そこで川淵さんが「トルシエのゴルフがうまくなって僕に勝てるような腕前になったら、もっと冷静に話し合うようにするよ」と冗談半分に言ったことがあった。>(同前)
川淵: ああ、そんなこと書いてんだ。ゴルフといえばね、トルシエは下手クソなんだけど、僕より飛ばした時だけは得意気な顔をしていたね。茶目っ気のあるすごくおもしろい男だった。
 ただね、僕には日本人に対し「サッカーを教えてやる」とでも言いたげな彼の態度が気に入らなかった。選手に対しても上からガーッとやる。噛んで含んで理解させながらやるということをしなかった。
 人間的にも、どうかなという面があった。日韓W杯の代表から俊輔を外し秋田豊と中山雅史を入れた。それはいいんだけど彼は記者会見をボイコットした。ああいう態度が僕には許せなかった。

二宮: トルシエは会長である岡野俊一郎さんを後見人と仰ぎ、何かあるとよく相談に行っていましたね。
川淵: 僕とは正面切ってよくケンカもした。すると、すぐ岡野さんに泣きつくんだ。しかし当時は岡野さんが会長だから、岡野さんから頼まれると、こっちも矛をおさめざるを得ない。そういうやり方をする男だったね、トルシエは。ヤンチャだったけど、わかりやすい男ではあった。

二宮: トルシエは日本代表を決勝トーナメントに導きました。ホストカントリーとしては最低限のノルマ達成という意見がある一方で、隣国の韓国がベスト4に行ったものだから、もっと上が狙えたのでは、という意見もありました。
川淵: これはヒデも言っていたけど、あのチームはアンチ・トルシエでまとまっていた。結果的には決勝トーナメントにまで行ったけど、あのやり方が長続きするとは僕には思えなかったな。

二宮: 私にはトルシエの姿はダグラス・マッカーサーのように映った。戦後、日本を統治するにあたりマッカーサーは「日本人の精神年齢は12歳」と言い放った。
 マッカーサー同様、植民地の総督風な振る舞いが見られました。今でいう「上から目線」。選手たちが反発するのは当然でしょう。しかしヒデは「それもトルシエの計算だったのではないか」と言っていましたね。
川淵: たしかにヒデはそう言っていたけど、それはどうかな。そんなにいい監督だったら、もっと他の国からオファーがあっただろうし、長続きもしたと思うよ。でもそうじゃなかった。彼がまかりなりにも日本で結果を出すことができたのは、日本人の辛抱強さに支えられたという面もあったんじゃないかな。

 ジーコの起用は早過ぎたか

二宮: 日韓W杯終了後、岡野さんが退任し、川淵さんが会長に就任します。代表監督には迷わずジーコを選びました。
川淵: ジーコには監督経験がない、本当に大丈夫かという声もありましたけど、僕はそうは思わなかった。あれはJリーグが出来る前のことです。アントラーズはイタリアに遠征し、8対1かなんかで大敗した。そこで監督の宮本征勝が事実上、指揮権をジーコに渡した。それからですよ、アントラーズが生まれ変わったのは……。

二宮: トルシエ流の強権支配は、ある程度までは行けるけど、それ以上は行けない。本当に強いチームは選手たちが自分たちで考え、自分たちで行動する。川淵さんはそういうチームづくりをジーコに託したわけですね。
川淵: そういうことです。ただ惜しむらくは早かったかな。これは結果論ですけど、イビチャ・オシムの後だったらジーコ・ジャパンはうまくいってたかもしれない。

二宮: オフトが基礎を教える小学校の先生なら、トルシエはスパルタ型の中学校の先生、オシムは非常に優秀な高校の先生、もちろん大学の教授もできる。しかしジーコ教授の授業はレベルが高過ぎて中学生や高校生には理解できないような印象がありました。川淵さんがおっしゃるように、ジーコとオシムは順番が逆だったらうまくいってたかもしれない。
川淵: 僕は今でもジーコに対して、もっとサポートできたんじゃないかと悔やんでいる。日本人のコーチを付けてやればよかったと。本人には2回、打診したんだけど、2回とも断られてしまった。

二宮: オフトの時には清雲英純さんが、トルシエの時には山本昌邦さんがサポート役として監督を支えていました。
川淵: そういうことがあったものだから、名前を出さずに、ジーコに「とにかく日本人コーチをひとり入れてくれ」と頼んだ。2回目は相当、強く言ったんだけど、それでも断ってきたね。

二宮: ジーコはコーチは兄のエドゥーで十分と考えていたみたいですね。
川淵: そうなんだ。ジーコの考えもわかるんだけど、エドゥーはあくまでもブラジル人だからね。細かいニュアンスは日本人には伝わりにくい。すると、それが原因でチームに不満が溜まっていく。僕はそのことを心配したんだ。
 だから、今でも日本人コーチについては後悔しているね。もっとうまく説得できなかったものかなってね。

二宮: ドイツW杯は初戦のオーストラリア戦が全てでした。残り10分でたて続けに3点を取られてしまった。堤防の決壊を見ているかのようでした。
川淵: 1対1になった時点で、もう負けたって感じになってしまったね。あそこでチーム全体が戦う意志を示し、前を向くかと思ったら、そうじゃなかった。そういう面で精神的な強さがなかった、と言われればそうかもしれない。

二宮: チームワークにも問題があった。1対1になった後、ヒデら攻撃陣は「もう1点とろう」と前がかりになったのに対し、宮本恒を中心とする最終ラインは「1対1の引き分けでもいい」と考えを切り換えたのではないか。意思の疎通を欠いたところを狙われてしまいました。
 1対0の場面でジーコが切った小野伸二というカードも攻撃のメッセージか守りのメッセージか、選手によって受け取り方が違っていました。その証拠に試合後、DF陣が口を揃えて「守れということだと思った」と答えたのに対し、司令塔の中村俊は「伸二を入れたから2点目を取りに行け、ということだと思った。それを逆に突かれた」と語っています。
川淵: これはジーコというより、むしろ選手の側の問題だったと思うね。ジーコが小野に託したメッセージがわからないのであれば、皆で意思の疎通をはかればいい。「ここはしっかり守っていこう」とかね。日本語で話せばいいんだから。何でもかんでも監督の責任にするのはどうかな。

二宮: ジーコが切った小野というカードは監督に頼らず「自分たちで考えろ」というメッセージだったかもしれない。
川淵: 確かに選手は上から、ああしろ、こうしろと言われた方が楽なんだ。でも、いつまでも監督に頼っていたのでは限界がある。僕の目にはまだトルシエ離れができていないように映ったね。

二宮: NHKの番組でヒデは「ジーコは正しかったけど、早かった」と言っていました。これは含蓄のある言葉でした。
川淵: あれは僕も見ていたけど、微妙な言い回しながら、うまい言い方をしてたね(笑)。

二宮: 初戦のオーストラリア戦に負けたジーコは2戦目のクロアチア戦の前にはじめてミーティングらしいミーティングを行います。「もっと早くやっていれば」という声もありました。
川淵: ジーコにはセレソンに対する独特の考え方があった。国を代表するチームに対しては細かいことをイチイチ言っちゃいけない、と思っているフシがあったね。

二宮: しかし、残念ながら日本のセレソンはまだそこまでいってなかった。
川淵: そう、だからそこは何度もジーコに言ったんだけど、そこは決して譲らなかったね。これは本人の哲学だったかもしれない。
 しかし、チームワークの欠如をジーコに求めるのはおかしい。というのも中国のアジアカップの時なんて、本当にいいチームだったもん。
 メンバーの中に横浜F・マリノスの松田直樹がいた。彼は自分がレギュラーじゃないとつむじを曲げるタイプなんだけど、優勝した瞬間、真っ先にベンチを飛び出したのが彼だった。全員で喜びを分かち合っていた。本当にいいチームだったと思うね。

二宮: 準決勝のバーレーン戦では咄嗟の判断で宮本がPKのゴールを変えた。精神的なたくましさを感じました。
川淵: そうそう、あの頃は非常にいいチームへと成長を遂げているという実感があった。ところがアジアカップが終わり、ケガが癒えてヒデがチームに復帰したあたりからギクシャクしていった。控えになった選手の嫉妬心が原因かもしれないね。
 そんなこともあるから、僕は日本人コーチをひとりつけたかったんだ。日本人コーチがいれば、今チームで何が起きているのか、こちらも把握することができるからね。本当にそのことだけは後悔してもし切れないね。

 次期監督ポロリ発言の裏側

二宮: 結局、ドイツW杯は1分け2敗、勝ち点1でグループリーグ敗退でした。しかし、帰国直後の記者会見でサプライズが待っていた。川淵さんの口から「(代表監督は)オシム」という名前が飛び出し、テンヤワンヤになってしまった。
川淵: あれはね、グループリーグ敗退のことをお詫びしようと思って開いた記者会見だったんです。ジーコに出席するように言ったんだけど、彼はベストを尽くしたんだからお詫びの必要はないと。基本的に外国人監督の考え方はこうなんだよね。
 それで僕が記者会見に出席して、一段落ついたところで、ある記者から「オリンピックチームと代表チームの関係は?」という質問が出た。その時、オリンピック監督代表監督は反町(康治)だったんだけど、咄嗟に彼の名前が出てこなかった。中々出てこないものだから少しアタフタしてしまったんだ。やっと反町という名前が頭に浮かんでホッとしたからか、「……オリンピックは反町、代表監督はオシム」と口走ってしまった。あぁ、もうこれは取り返しのつかないことになったなと思っちゃいましたよ(笑)。

二宮: オシムという、いわゆる腹案は、いつ頃から温めていたんですか?
川淵: ドイツW杯の始まる前、4月だったかな。ジーコと食事をした時に「W杯後はどうする?」と聞くと、「もう、やらない」と。それならということで秘密裏に人選に入った。
 まずは技術委員会で田嶋幸三がね、次はオシムがいいと推薦してくれた。そこで下調べをすると、オシムは自分の息子のアマルにジェフの監督を継がせたいと思っているという情報が入ってきた。そこで水面下で田嶋に交渉させた。彼はドイツ語がしゃべれるからね。

二宮: まだ交渉の途中でオシムの名が出たものだからジェフは怒った。
川淵: そりゃ、そうだよ。田嶋にもジェフの淀川隆博社長(当時)にも責められちゃった。ジェフのサポーターには今でも本当に申し訳ないことをしたと思っている。
 このポロリ発言を意識的にやったのではないか、と疑っている人もいるけど、それは絶対にない。なぜといって、これで話が流れるかもしれないなと一番、心配したのは僕自身だもん。
 確かにポロリは僕のミスだけど、そこまで責めないでくれよ、という思いもあった。だって、次の監督はどうするのか、協会は方向性を明確にして、早い段階から探しておくべきだとご託宣を垂れるのはマスコミの方だからね。確かに代表監督なんて、そうそう簡単に見つかるもんじゃない。仮にいい監督が見つかったとしても値段で折り合いがつかなかったら、どうするのか。
 そういうリスクを考えたら、少しでも早く手を打っておいた方がいい。いざという時に慌てないためにもね。今回は、途中まではうまくいってた。ところが最後にしくじってしまった。こればっかりはもう……(苦笑)。

二宮: オシムは就任から1年4カ月後、脳梗塞で倒れてしまったわけですが、川淵さん、記者会見で泣いていましたね。
川淵: あの時のショックは口では言い表せないな。実は就任の時、一番心配していたのは心臓だったんです。だから海外へ出た時にも、心臓を診てもらえる病院だけは確保しておいた。ところが脳梗塞だったでしょう。これは全く予期せぬ事態でした。

二宮: 一命を取りとめた時はホッとなさったのでは?
川淵: なんとか命だけは、と思っていたからね。意識が戻ってから病院へお見舞いに行ったけれど「サッカーを見る時間は絶対に削らない」と言っていた。それを聞いて心から嬉しかったね。

<この原稿は『g2』2010年6月号に掲載された原稿を抜粋したものです>

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