今野泰幸はアルベルト・ザッケローニ監督の就任後、全試合にスタメン出場を果たし、怪我人続出の日本代表の最終ラインを支えている。センターバックに加え、サイドバック、ボランチと複数のポジションをこなせるユーティリティ性を持ち、代表にとって貴重な存在だ。
 活躍の場を広げる一方で今野は昨年、2つの挫折を味わっている。1つは、名を上げるチャンスのあった南アフリカW杯を直前の親善試合で負傷し、わずか数分間の出場にとどまったこと。もう1つは、所属するFC東京がリーグ戦16位に終わり、J2降格の憂き目にあったことだ。苦汁を嘗める形となった今野は今季、ザックジャパンでの定位置確保とクラブのJ1復帰を目指す。
 昨年の雪辱に燃える今野のパーソナリティを、06年の原稿で振り返りたい。
<この原稿は2006年10月5日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 内側側副靱帯の損傷でアジア杯予選イエメン戦(8月16日)メンバーからはずれたものの、今野泰幸(FC東京)がオシム・ジャパンのキーパーソンだと見る者は少なくない。
 球際に強く、人にも厳しい。日本代表のイビチャ・オシム監督は就任前、ジーコジャパンを評して「水を運ぶ選手も必要」と語ったが、その役割を担えるプレーヤーとして、1年ぶりの代表復帰を果たした。
 今野はいわゆるオシムイズムをどう解釈しているのか。
「ジェフの監督時代のオシムさんのサッカーを知っていますけど、選手たちはただ走るだけじゃなく考えて走っていた。相手の嫌なところ、嫌なところへ走り込んでくるんです。決して無駄な走りじゃない。
 たとえばスローイングの時、ジェフではボールを投げた選手が必ずゴール前にダッシュしてくるんです。ボールの方向へ。で、ボールを受けた人が走ってくる人にチョコンと落としたりする。ウチもこれで何回か痛い目に遭わされました。
 またやってくるとわかっていても、こちらは後ろ向きになるから、なかなかマークに付きづらい。あれは間違いなくオシムさんの作戦だと思いますね。オシムさんが監督に就任してから、ジェフは変わりましたもん」
 今野がカルチャーショックを受けたのは昨年10月、大分で行われたオールスターゲームだ。J-EASTに属した今野は初めてオシムの指導を受けた。
「ビブスが何色もあって、それでパスゲームをやるんですが、普通のパスゲームじゃないんです。ただボールを奪い合うだけじゃなく、ビブスが違う色の選手が同じチームになることもある。
 慣れないから僕は困ってしまって、ジェフの阿部勇樹さんに“いつも、こういう練習をしているんですか?”と訊いたら、“こういうことばっかりだよ”って。“でも楽しいよ”と。その言葉が印象深かったですね。
 練習の狙い? きっと判断力を養うためだと思うんです。ものすごく頭を使いましたよ」

 仙台市で生まれた今野は親友とその兄の影響で小学1年からサッカーを始めた。
 Jリーグが華々しく開幕したのが1993年5月15日。今野は小学5年生だった。
「見ましたよ、見ましたよ。ヴェルディのマイヤーという選手がJリーグ初ゴールをあげたんですよね。サポーターがものすごく盛り上がっていてラッパがプープー鳴っていた。選手たちは皆かっこよくて巧かった。僕もいつかはJリーガーに……って憧れましたよ」
 高校は県内の強豪・東北高に進んだ。同校にはスポーツ推薦枠があるが今野は一般入試で入った。2つ下には、後にヤクルトに入団する高井雄平という、甲子園をわかせた左ピッチャーがいた。
 高3の冬の高校選手権ではベスト8にまで進出した。大会を制した国見(長崎)には大久保嘉人(現セレッソ)がいた。
 卒業後は地元のソニー仙台への就職が内定していた。今野はJFLでサッカーを続けるつもりだった。
 ところが急にコンサドーレ札幌(当時J1)から「練習に来ないか?」と連絡が入った。高校の監督は「オマエはソニー仙台に就職が決まっているんだから行く必要はない」と言った。
「それでも僕は行きたいんです」
 小学生の頃に抱いたJリーガーの夢――そのチャンスを逃したくないと思った。
 裏話がある。ソニー仙台の監督がコンサドーレの岡田武史監督(当時)と親しく、「こいつはJリーガーの器だ」と推薦したというのである。
「母親に相談すると“ソニー仙台でいいじゃない”と。一方、父親は“自分で決めろ!”と。もちろん僕にはこれっぽっちも迷いがなかった。
 普段はわりと心配性なんですが、この時だけは不安もなかった。絶対に(札幌へ)行きたいとしか思わなかった。あの自信はいったい何だったんでしょうねぇ(笑)」
 入団が決まり、オーストラリアでのキャンプで岡田監督との面談が行われた。
「オマエ、彼女はいるのか?」
「いません」
「オマエ、自分のいいところは何かわかっているのか?」
「いや、わかりません……」
「教えてやろう。オマエの狙いを持ったアプローチがいいんだ。そこを伸ばしていけ」
 1年目から17試合に出場した。ハードマークが売り物のボランチとして中盤の底を支えた。1対1での強さは若い頃から際立っていた。
「1対1に強いとよく言われますが、相手がいい形でボールを持ち、前を向いて仕掛けられたら、なかなかボールは奪えない。相手がパスを回している時にマークしている選手に対して狙いを持ってアプローチし、その通りにパスが来たらボールを奪う自信がある。
 相手がトラップした瞬間、ボールを奪えれば最高ですね。しかもファウルしないでマイボールにする。自分でとったら、そこから上がっていけますからね。これが僕の理想のプレーです」

 コンサドーレからFC東京に移籍し、3年目のシーズンを戦っている。セレッソ大阪、ガンバ大阪、浦和レッズ、鹿島アントラーズ、ジェフ千葉が熾烈な優勝争いを展開した作シーズン、今野は最終節のセレッソ戦で1−2から同点ゴールを決め、ガンバの奇跡の逆転優勝の陰の立役者となった。
「目の前で優勝を決められるなんて、それだけは嫌だった。見たくなかった。もし、そんなことになったらサッカー人生で最悪の出来事ですよ」
 こう前置きして、今野はクールに9か月前の出来事を振り返った。
「ゴールを決めた瞬間は“どんなもんだ!”という気持ちでしたね。あの時はセレッソのサポーターがすごく多かった。それを黙らせたという感覚が、自分の中ではすごく好きでしたね」
 顔には古くない縫い傷がある。鼻も2度、骨折した。表情は柔和だがプレーは厳しい。
「強い選手との球際の競り合いには燃えますね。相手のトップ下を抑えるには一瞬のスキも見せちゃいけない。サッカーは格闘技だと思っています」
 日の丸は「水を運ぶ男」の完全復活を待っている。
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