フェンシングという競技が国内で広く知れ渡ったのは、3年前の北京五輪である。太田雄貴が五輪では日本人初のメダル(銀)を獲得し、全国にその名を轟かせたことは記憶に新しい。だが、実はその約1年前、日本フェンシング史上初めて世界の頂点に立った日本人フェンサーがいることはあまり知られていない。三宅諒、当時17歳が世界ジュニア・カデ選手権(U−17)男子フルーレで優勝したのだ。各年代カテゴリーを通じて世界選手権を制した唯一の日本人フェンサー。それが三宅である。
 現在、三宅は日本代表強化指定選手として世界を転戦している。5月に韓国で行なわれたワールドカップA大会を皮切りに、6月はロシア、キューバ(ともにワールドカップ)を回り、7月のアジア選手権大会、10月の世界選手権大会と続く。全て来年のロンドン五輪につながる重要な大会だ。現在、世界ランキングは日本人選手では太田の7位に次ぐ25位。初めての五輪出場も現実味を帯びてきている。ところが、当の本人はというと、未だ五輪を強く意識してはいないのだという。

「もちろん、代表になっているわけですから、オリンピックに出られるに越したことはありません。でも、オリンピックのことを考える前に、今はやるべきことがたくさんある。目の前にある課題を一つ一つクリアしていくことの方が大事なんです。試合で一つでも多く収穫して、次の試合にいかす。この繰り返しの延長線上にオリンピックがあると思っています」

 五輪の1年前ともなれば当然、その話題を避けて通ることはできない。強化指定選手であれば、なおさらである。周囲からの期待の声が大きくなればなるほど、意識せざるを得なくなり、時にはそれが“過信”になることもある。だが、三宅にそうした浮き足立った様子は全く見られない。常に自分の立場を冷静に分析し、やるべきことを淡々とやる。これこそが“フェンサー気質”なのかもしれない。

 太田のエースたる所以

 三宅が初めてナショナルチームに召集されたのは昨季のことだ。太田をはじめ、北京五輪を経験した千田健太、小学校時代からライバルとして切磋琢磨してきた淡路卓とともに、世界の強豪を相手に戦い、貴重な経験を積んだ。なかでも昨年11月にフランス・パリで開催された世界選手権での団体戦(男子フルーレ)は、現在の三宅にとって大きな糧となっている。

 クロアチア、イスラエル、そして準々決勝では同大会の個人戦の覇者を擁する強豪ドイツを下した日本だったが、準決勝でイタリアに敗退。ロシアとの3位決定戦に臨んだ。1試合目、日本は太田が挑んだ。もちろん、チームとしては先にリードを奪い、弾みをつけたいところだ。ところが、なんと太田は自らは1本も奪えないまま、相手に5連続ポイントを奪われてしまったのだ。「0−5」。日本はいきなり大きなハンデを背負うこととなった。

 団体戦は両チーム3人の総当たり戦、9試合が行なわれる。全試合のポイントが加算され、どちらかのチームが1試合目5点、2試合目10点、3試合目15点……と5の倍数のポイントを獲得するまで続けられ、最終的に9試合目で45点を取ったチームが勝者となる。1試合目で0−5とされた日本が2試合目に勝つには、相手に5点を奪われる前に、一挙10点を入れなければならない。つまり、相手よりも倍の労力が必要となるのだ。しかも、エースの太田が1本も奪えなかったのだから、その時のチームのショックの大きさは想像に難くない。

 しかし結局、この試合を制し、銅メダルを獲得したのは日本。劇的な逆転勝利にチームを導いたのは、やはりエースであった。
「太田さんが0−5で負けてベンチに戻ってきた時、チームは動揺していました。それでも銅メダルがかかっていましたし、何とか一つずつ取り返していこうとしていくわけですけど、太田さんはやっぱりすごかった。まだ解決の糸口すら見つかっていない状況でも、決して焦ったり、投げだしたりしない。やれるところから、一つ一つひも解いていくんです。そして突破口を見つけたら、一気に攻めていく。劣勢な状態でもこうしたことができるからこそ、太田さんは強いんだなと改めてわかりました」
 身近によきお手本がいる環境が、20歳のフェンサーの成長を促している。

 ポジティブ・シンキング

「負けてもいいから敵を知ろう」。ナショナルチーム1年目の昨季、三宅は勝敗にはこだわらず、まずは世界を知ることをテーマに試合に臨んだ。「いい感じでこてんぱんにやられた試合もあった」が、確実に経験値は上がった。そして2年目の今季は、その経験を踏まえたうえで、「勝つことに挑戦していく」。

 シーズンの初戦は5月、韓国で行なわれたワールドカップA大会。三宅は結果を意識して臨んだ。ところが、個人戦はまさかの予選敗退。負けた相手は30代半ばの選手だった。フェンシング界でいえばピークをやや過ぎている年齢である。ランキングを見ても、三宅は勝たなければならない相手だった。では、なぜ負けてしまったのか。最大の敗因はメンタルにあった。
「昨シーズンの経験で、『このくらいだったら負けないだろう』というような気持ちがあったんだと思います。つまりは、油断してしまったということです」
 その気持ちの緩みが、試合では焦りとなった。普段のスタイルを自ら崩し、無理して攻めていったところを相手にかわされ、逆にポイントを奪われた。「相手を見ずに自分勝手なフェンシング」は、世界では通用しないことを三宅は思い知らされた。

 しかし、この敗戦を三宅は決してマイナスには感じていない。「初戦の韓国でガツンとやられたので、逆に次からは強い気持ちをもって臨むことができます」といたって前向きだ。壁にぶつかっても、決して立ち止まらず、ポジティブにとらえ、前進し続ける――。これこそが、これまで三宅を世界の舞台へと押し上げた所以なのだ。

(後編につづく)

三宅諒(みやけ・りょう)プロフィール>
1990年12月24日、千葉県生まれ。小学1年の時にフェンシングを始め、4年で全国大会準優勝、6年で優勝した。高校2年時には2007年の世界ジュニア・カデ選手権(U−17)で優勝し、日本人初の世界選手権覇者となる。翌年にはインターハイ、国民体育大会で優勝。09年、慶応大学に進学し、昨年よりナショナルチームの一員として世界を転戦している。178センチ、72キロ。


(斎藤寿子)
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