受験生にたとえて言えば“2浪”の末に合格を決めたようなものだ。招致の意向を示したのが1999年だから、長い長い道のりだった。2018年冬季五輪の開催地に決定した韓国・平昌には心よりお祝い申し上げたい。
 聞けば、平昌が冬季五輪招致に乗り出した時、IOC委員の中には「本当に、あの国で五輪ができるのか?」といぶかしがる者もいたという。北朝鮮の平壌とカン違いしてしまったようだ。要するに、最初はその程度の知名度だったのである。
 過去2回の開催地選考の投票では、いずれも1次で最多票を得ながら、決選投票でバンクーバー(カナダ)、ソチ(ロシア)に逆転負けを喫した。

 しかし、彼らはそれでも諦めなかった。音を上げなかった。「ドリーム・プログラム」なるプロジェクトを立ち上げ、冬のスポーツに縁のない国・地域の子供たちを招待し、国際的評価を高めた。韓国・中央日報によれば招致委員会の趙亮鎬会長はこの2年間で地球を10周分、招致活動のために移動したという。選考の重要な評価基準となる地元支持率はアヌシー(フランス)51%、ミュンヘン(ドイツ)60%をはるかに上回る92%。平昌市民ならびに韓国国民の冬季五輪開催にかける情熱と執念が勝利の女神を説き伏せたと言っても過言ではあるまい。

 果たして東京に、そして日本に、倒れても踏まれても立ち上がるだけの情熱と執念はあるだろうか。平昌から2年後の20年、再び聖火がアジアに戻る可能性は決して高くはない。20年大会にマドリード(スペイン)が名乗りを上げれば、平昌同様、3度目の挑戦となり、東京にとっては厄介だ。そういえば16年のリオ(ブラジル)も3度目の挑戦で聖火をたぐり寄せた。

 東京は苦しい。だからと言って尻尾を巻くようでは、五輪開催への本気度が疑われかねない。「震災からの復興」というコンセプト、あれは単なる方便だったのかと鼻白む。筋論を述べれば、五輪が都民や国民にとって有益なものであるなら、そしてレガシーとして残るものであるのなら、たとえ2浪しても、いや3浪してでもやるべきだ。今まさに、その覚悟が問われている。

<この原稿は11年7月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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