2004年のアテネ大会。日本人女子の義足選手として初めてパラリンピックに出場したのが走り幅跳びの佐藤真海だ。走り幅跳びを始めて約1年。彼女にとっては初めての国際大会でもあった。最終の6本目で自己ベストを3センチ更新。しかし、あとわずか3センチで決勝進出を逃し、結果は9位に終わった。「もっともっと強くなって、必ずパラリンピックの舞台に戻ってこよう」。佐藤のアスリート魂に火がついた瞬間だった。
 彼女が骨のガンである骨肉腫を発症したのは2001年。憧れだった早稲田大学で応援部チアリーダーズに入り、まさに学生生活を謳歌していた最中のことだった。翌年の春、右足ヒザ下を切断。半年後には退院し、復学した。だが、チアリーダーとして応援部に戻れるわけでもなく、片足を失ったショックはあまりにも大きかった。
「スポーツでもやらないと、私、ダメになるな」
 元来、体を動かすことが大好きで、小学校時代は水泳、中学、高校時代は陸上をやっていた。スポーツはものごころついた時からいつも身近な存在だった。そのスポーツに佐藤は救いを求めた。

 まず最初に始めたのは水泳だった。
「当時、選択肢は車椅子競技か、水泳だったんです。それで一人でもできて、体にも負担がかからない水泳を選びました。恐る恐る泳いでみると、私の体は泳ぐことを覚えていました。そのことがすごく嬉しくて仕方なかったのを今でも覚えています」
 しばらくすると、大会に出場するようになった。すると、眠っていたアスリートの血が徐々に騒ぎ始めた。

 この頃出会った早稲田大学の先輩である河合純一の存在も、その後の佐藤の人生に大きく影響している。
「どうせやるなら目標が欲しいなと考えた時に“そういえば、パラリンピックがあるな”と思ったんです。それでインターネットでいろいろと調べていたところ、河合さんのことを知りました」

 河合はバルセロナから5大会連続でパラリンピックに出場し、金5個、銀9個、銅7個の計21個ものメダルを獲得した世界を代表する競泳選手だ。当時もバルセロナ、アトランタ、シドニーで活躍しており、佐藤にとってはまさにスーパースター。その河合と話をしたり、一緒に練習を繰り返すうちに、佐藤のパラリンピックへの思いは強くなっていった。
「河合さんは障害を持っていることを卑下せずに、自分に自信をもって、常に世界を目指している。そういう姿勢や生き方をしている河合さんが目指すパラリンピックという世界を見てみたいなと思いました」

 アテネへの道のり

 佐藤が通っていたのは東京都北区にある東京都障害者総合スポーツセンター。そこでよく話にのぼっていたのが義肢装具士の臼井二美男の名だった。聞けば、スポーツ義足というものがあり、日本ではその先駆者的存在であるという。「臼井さんに会えば、何か違う道が見えてくるかもしれない」。佐藤は臼井が主宰する練習会へと足を運んだ。

「ちょっと走ってみなよ」
 初めての練習会で、佐藤はいきなり臼井にそう言われて驚いた。
「当時の私は走るどころか、歩くことさえもままならない状態でした。義足が自分の足になっていなくて、何かモノに乗っているような感じ。安定感が全くなかったんです。どこに重心を乗せていいのかも、どれくらい乗せたらいいのかもわからなくて……怖いし、痛いし、という感じでした。だから、とても走れる状態ではなかった。でも、臼井さんの言葉に“ちょっとやってみようかな”と思ったんです」

 初めての走りはスキップ状態で、お世辞にも走っているとはいえなかったという。だが、目の前の視界がほんの少し開けたような気がしていた。
「あぁ、もしかして私、また走れるようになるかもしれない」
 その日から佐藤の陸上人生がスタートした。

 競技用の義足をつけるにはカーボンの反発力に耐え得るあらゆる筋力が必要となる。例えば義足に体重がかかっているヒザの部分には大きな負担が強いられる。また、左右のバランスをとるためには体幹が重要だ。しかし、入院中にそれまで鍛えられた佐藤の筋力はだいぶ落ちていた。そこでまずは日常生活用の義足で走りながら体をつくるところから始めることとなった。毎日、走り込みと筋力トレーニングが行なわれた。しばらくすると、少し反発力のある義足をつけて走ることが許された。そして3カ月後には、臼井から競技用の義足が渡された。

「最初はなんだかつま先で走っているような感覚でした。義足に体重をかけるのが怖くて、どうしても健足側に頼った走りをしていましたね。でも、怖いとか痛いとかよりも“よし、走るぞ!”という気持ちの方が大きかった。うまく走れなくて、気持ちよくまではいきませんでしたけど、毎日充実感はありましたね」

 もともと中学、高校と中距離ランナーだった佐藤は、スプリンターとしての自分に自信をもてずにいた。そこで100メートル以外の種目にも挑戦しようと選んだのが走り幅跳びだった。軽い気持ちで跳んでみると、かなり難しい競技であることがわかった。助走、踏み切り、空中体勢、着地――。これら全てが揃って、初めて記録が出るのだ。複合的な要素が複雑に絡み合う走り幅跳びを佐藤は嫌がるどころか、どっぷりとハマった。目指すはもちろん、パラリンピックだった。

 そして迎えた2004年3月、九州チャレンジ選手権大会。半年後にギリシャ・アテネで開催されるパラリンピックの最終選考会を兼ねたこの大会に、佐藤は出場した。当時の佐藤の自己ベストは3メート20センチ台。アテネへの参加標準記録3メートル55センチには遠く及ばなかった。ところがこの日、佐藤はいきなり1本目で3メートル65センチを跳び、見事にアテネへの切符をつかんでみせた。その後も度々見せる、佐藤の本番での強さを発揮した最初の瞬間だった。

 初めてのパラリンピック、しかも佐藤にとっては初めての世界の舞台となったアテネでは決勝進出まであと3センチの9位だった。
「たった1年間という時間しかなく、満足に練習していたわけでもないのに、いきなり決勝に行かなくてよかったと思いました。パラリンピックはそんなに甘くないんだぞ、ということを教えてもらった気がします」
 世界のトップジャンパーたちのメダル争いを観る佐藤のその視線の先には、既に4年後の中国・北京があった。

(後編につづく)

佐藤真海(さとう・まみ)プロフィール>
1982年3月12日、宮城県生まれ。早稲田大学2年時に骨肉腫を発症し、右足ヒザ下を切断した。退院後、東京都障害者総合スポーツセンターで水泳を始める。その後、競技用義足の第一人者・臼井二美男氏と出会い、陸上競技へ。2004年アテネ(9位)、08年北京(6位)と、走り幅跳びで2大会連続でパラリンピックに出場した。04年、サントリーに入社。現在、サントリービジネスエキスパート株式会社お客様リレーション本部で次世代育成プログラムの運営に取り組んでいる。現在、早稲田大学大学院スポーツ科学学術院(社会人コース)に在籍中。

(斎藤寿子)
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