南米選手権では準々決勝で敗退したものの、アルゼンチンといえば「テクニシャンの宝庫」だ。
 一昔前ならディエゴ・マラドーナ、最近ならリオネル・メッシが、その代表格か。
 Jリーグがスタートした1993年、横浜マリノス(当時)にラモン・ディアスという元アルゼンチン代表FWが入団した。
 ‘79年、日本で開催されたワールドユース選手権の得点王である。「マラドーナとは不仲」との触れ込みが、逆にディアスの存在を特別なものにしていた。

 ゴール前で特に派手な動きをするわけではないがポジショニングがうまく、GKとの駆け引きに長けていた。
 フィニッシュは左足と決まっていたにもかかわらず、誰も止められない。待ち構える相手DFやGKを嘲笑うかのようにゴールを量産した。
 
 たまたま彼を取材するため、私はジェフ市原(当時)の本拠地・市原臨海競技場にいた。‘93年6月26日のことだ。
 後半5分、ディアスは左足で最初のゴールを奪った。続く23分には、アルゼンチン人の相棒ダビド・ビスコンティからのクロスに左足で打つと見せかけて右足で押し込んだのだ。
 ディアスの左足を警戒していた市原のGK加藤好男(元日本代表GKコーチ)は為す術がなかった。うなだれる加藤にディアスが近付く。
 次の瞬間、ディアスはニコッとウインクを返した。「キミの狙いは全てお見通しだよ」とでも言わんばかりに。

 加藤は無念の面持ちで語ったものだ。
「こちらは彼の左足しか頭になかった。案の定、左足で打つフォームで入ってきた。ところがシュートを打つ瞬間、彼は自分の左足の前をスルーさせて右足を使った。カバーしていなかったニアを抜かれてしまった。その後ですよ、僕にウインクしたのは……」
 この試合、ディアスは左足でもう1点追加し、ハットトリックを達成した。
 予期せぬ右足での2点目のゴールにより、加藤の頭は混乱していた。精神的なショックも尾を引いていた。それを見抜いて、今度は再び左足を使ったのである。
 遊び心に裏打ちされた高度なテクニックを目のあたりにして、こちらは溜め息をつくしかなかった。

 その頃、「サッカーダイジェスト」誌でアルゼンチン関連のレポートを寄せていたのが藤坂千鶴(現在は藤坂ガルシア千鶴)さんである。辛口のサッカー評論家といえばセルジオ越後さんが有名だが、彼女も負けてはいなかった。
 しかも的を射ている。「世界の中には、スゴイ女流サッカーライターもいるものだなぁ」と驚いたことを、つい昨日のことのように思い出す。
 その彼女が『ストライカーのつくり方』(講談社現代新書)なる本を上梓した。「アルゼンチンはなぜ得点を量産できるのか」との副題が付いている。

<「アルゼンチンのストライカー」と一言で言っても、実にさまざまなタイプが存在する。
 メッシのようにスピードとテクニックを駆使する者、テベスのようにアグレッシヴな攻めを武器とする者、バティストゥータのようにヘディングを得意とする者、マルティン・パレルモのようにゴールエリア内でつねに得点できる場所にいる感覚に優れた者。特定のタイプではなく、個々の選手が異なる持ち味を活かし、独自のスタイルを築き上げている。>(前掲者)
 確かに、そのとおり。
 では、なぜアルゼンチンからは次から次へと個性豊かなストライカーが現れるのか?
 興味深かったのは、GKを含めて5〜6人でプレーする「バビーフットボール」の存在である。「バビー」とは「ベビー」のことだ。
<ボディコンタクトは禁止されておらず、反則ルールは通常のサッカーと同じ。タッチラインを割ったボールはキックインではなくスローイン。オフサイドはなし、ゴールキックではなくスローといったところはフットサルと同様だ>(同前)

 アルゼンチンの子供たちは5〜6歳の頃から、この競技に親しむという。
 厳しいマークを受けながら狭いスペースを牛若丸のようにすり抜け、それでもバランスを崩さないメッシのプレースタイルはこの競技体験を抜きにしては生まれ得ないものだと著者は喝破する。
 メッシくらいの体格の選手なら、この国にも五万といる。日本も、この競技を幼少期の子供たちへ導入してみてはどうか。
 日本男児も、なでしこたちに負けてはいられない。

<この原稿は2011年8月12日号『週刊漫画ゴラク』に掲載されたものです>

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