4年に一度の祭典パラリンピックへの思いは日に日に強まるばかりだ。
 スプリンター春田純が本気で人生をかけてその舞台を目指し始めたのは、ちょうど3年前のことだ。きっかけは義肢装具士・沖野敦郎から誘われ、北京パラリンピックを観戦に行ったことだった。陸上競技が行なわれた通称「鳥の巣」(北京国家体育場)に一歩足を踏み入れた瞬間、春田の全身に鳥肌が立った。

「9万人の大観衆が詰めかけた、あの雰囲気は感動のひと言でした。もう何も言葉が出ませんでしたよ。僕と同じ100メートルの決勝に、山本篤(男子・片大腿切断)と中西麻耶ちゃん(女子・片下腿切断)が出ていて、もういてもたってもいられなくて、スタンドの一番下にまで走って行ったんです。『行け! 山本!』『麻耶! 頑張れ!』と叫ばずにはいられなかったですね」

 それまで春田にとってパラリンピックは、テレビの中の別世界。自分にはとうてい手の届かないはかない夢のまた夢だった。だが、その世界を実際に体感した彼にはもう、それを夢で終わらせることはできなかった。熱い思いが体全体にしみわたっていくのを感じながら、春田は静かに闘志を燃やしていた。
「4年後、絶対に自分もこの舞台に立とう」
 春田のアスリート魂に火がついた瞬間だった。

 自らつくっていた限界
 
 とはいえ、当時の自己記録は12秒93。パラリンピックに出場するには記録更新が絶対条件となる。だが、2012年には34歳だ。20代の自分の記録を上回ることができるかは未知数だったと言っていいだろう。無論、春田に諦める気持ちは一切なかった。それでも当時の自分に限界を感じつつあったことも確かだった。
「このままでは、さらにタイムを縮めることはできない。もっと過酷なメニューをこなさなければ……」
頭ではわかっていた。だが、殻を破る勇気はなかなか持てなかった。

 そんな春田に転機が訪れたのは、北京パラリンピック直後のことだった。あるテレビ番組で米国人の義足アスリートのドキュメンタリーが放映されていた。彼の練習風景を見て、春田は驚いた。それまで義足の自分には絶対にできないと思っていたレッグプレスをやっていたのだ。

「『えっ!? 義足でもやっていいんだ……』と思いましたね。それまでの僕は、『義足だから、やめとこう』『これは義足ではできないな』と、最初から諦めることも少なくなかったんです。でも、その番組を見て考えが変わりました。『アスリートとして必要なものは義足だろうと何だろうと関係ないんだ』と。逆に僕ら義足ランナーは健常者以上のことをやらなければ、最高のパフォーマンスをすることはできないと思ったんです」

 今年5月、春田は大分陸上で日本人義足ランナーとして初の11秒台をマークした。しかし、パラリンピックのファイナリストを目指す彼は決して満足はしておらず、さらなる記録更新に余念がない。
 インタビューの最後にこんなことを訊いてみた。
――今の春田さんにとって、陸上とは?
「人生そのものです!」
 一点の曇りもないその笑顔には、アスリートのロマンが詰まっているように感じられた。
 スプリンター春田純。彼は今、一歩一歩、着実にロンドンへ近づいている。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。春田純選手の日常を追ったアスリートストーリー「人生をかけた11秒」とフォトギャラリーはこちらから!

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