「日本人初の義足パラリンピアン」。それがハイジャンパー鈴木徹だ。1996年のアトランタ大会まで、パラリンピックに出場することができた日本人選手は、車椅子もしくは視覚障害クラスの選手に限られていた。義足で走ったり跳んだりすることは、考えられていなかったのである。その“常識”を覆したのが鈴木だった。高校時代には国体3位になるなど、ハンドボール界で将来を嘱望されていた鈴木が、交通事故で右足を切断したのは、高校の卒業式の1週間前だった。その1年半後、鈴木は走り高跳びでシドニーパラリンピックに出場。その後、アテネ、北京と3大会連続出場を果たした。2006年にはアジア人初の2メートルジャンパーとなった鈴木は、08年北京パラリンピックでは日本選手団の旗手という大役を務めた。今や義足アスリートのパイオニアとして知られる鈴木。彼を世界の舞台へと押し上げたのは、ある2人の人物との出会いがあった。
(写真:ケガから復帰し、ロンドンに向けて本格的に始動した鈴木)

 99年3月、右足を切断した鈴木はスポーツのできる義足を探し求めていた。義足でのハンドボール界復帰を狙っていたのだ。そんな折、入院していた地元・山梨の病院の医師から紹介されたのが、日本の競技用義足の第一人者である義肢装具士の臼井二美男だった。臼井は鈴木の第一印象をこう語っている。
「まだ18歳でしたからね、初々しい少年でしたよ。今のように話し上手ではありませんでしたが、とにかく『走りたい』『スポーツがしたい』という一途な思いはひしひしと伝わってきました」
 そして臼井は、真剣さに満ちた表情、ハンドボールで鍛え上げられた身体を一目見て、鈴木のアスリートとしての可能性を感じていた。

 実際、鈴木の身体能力は高かった。その年の夏、鈴木は山梨の病院から臼井が勤める財団法人鉄道弘済会義肢装具サポートセンターへと転院し、リハビリを始めた。まずは日常用の義足をつけて歩行する訓練からのスタートだった。通常、杖なしで歩けるようになるには、早くても1カ月を要するという。ところが、鈴木はわずか10日でやってのけてしまったのだ。さらに秋が来る頃には、臼井が主催する切断者スポーツクラブ「ヘルスエンジェルス」の練習会に顔を出すようになり、走れるようにまでになっていた。

「鈴木君はヒザ下11センチと短断端なので、どうしても足の振り出しが長断端の人よりも遅くなる。だから身体能力はあっても、スプリンターとしては難しい。しかし、走り高跳びなら鈴木君のジャンプ力を生かすことができるのではないか」
 臼井はそう確信していた。案の定、鈴木は初めて走り高跳びを行なった日、当時の日本記録であった1メートル50センチのバーを軽々と跳び越えてみせた。

 00年に入ると、競技用義足をつけての本格的なトレーニングが始まった。そして同年4月、九州チャレンジ大会に臨んだ鈴木は、参加標準記録を上回る1メートル74センチを跳んだ。さらにパラリンピックの選考会を兼ねて行なわれた翌月の日本選手権では、1メートル81センチと自身がもつ日本記録を更新し、シドニーパラリンピックの切符を掴み取ったのだ。義足をつけ始めてちょうど1年、そして走り高跳びを始めて約半年のことだった。しかし、結果は当時の自己ベスト1メートル85センチに遠く及ばない1メートル78センチ。6位入賞だったが、鈴木から笑顔がこぼれることはなかった。

 専門技術の習得で真のハイジャンパーへ

 03年夏、鈴木はあるテレビ番組の収録で、当時、世界で唯一、義足で2メートルを跳ぶハイジャンパーと共演した。そこで大ジャンプを目の当たりにした鈴木は、その世界記録保持者と同じように、生活用義足で競技することを決心した。しかし、生活用義足で臨んだ1年後のアテネ大会では、自己ベスト(1メートル90センチ)に及ばない1メートル80センチと不甲斐ない成績に終わった。鈴木は専門の指導者の必要性を感じていた。そこで依頼をしたのが、同じ走り高跳びの日本記録保持者である醍醐直幸の指導者としても有名な福間博樹だ。大学の先輩に福間の教え子だった、走り高跳び元日本記録保持者の吉田孝久がいたことが縁となった。連絡を受けた福間は「とにかく、一度来てみなさい」と言った。だが、内心は不安だったという。それまで一度も義足の選手を指導した経験がなかったからだ。

 そんな福間の思いとは裏腹に意気揚々と福間の元を訪れた鈴木は、目の前で跳んで見せた。福間にはすぐに鈴木の身体能力の高さがわかった。ハンドボールで鍛えていただけあり、筋力は十分。さらに体のバランスもよく、バネもあった。
「ジャンパーとしてはともかく、動きはいい。これは走り高跳びの技術を身に付ければ、きっと伸びるはずだ」
 福間はそう感じていた。とはいえ、やはり義足の選手を教えるのは自分にとって未知の世界。福間は引き受けようか否か、決めかねていた。そんな福間の気持ちを知ってか知らぬか、練習後、鈴木は「先生、また来週もよろしくお願いします!」と言って、颯爽と帰って行ったという。その言葉に引っ張られるように、福間は指導することを決意した。

 福間はまず、義足の変更を提案した。当時、鈴木はまだ生活用の義足で跳んでいたが、福間には義足が彼の能力を邪魔しているように感じられたのだ。聞けば、アテネの前は競技用義足を履いていたという。ならば、話は早い。すぐに生活用から競技用へと義足を替えさせた。すると、瞬く間に助走がよくなり、ジャンプにも好影響を及ぼした。課題は踏み切りだった。そこで2カ月間、跳躍は1本も行なわず、ひたすら踏み切りの基本動作の練習が繰り返された。義足の右足から踏み切り足の左足へと体重移動をしていく。一歩一歩、全体重を踏み切り足に預け、その度に腹部や臀部を締めることを意識させた。さらに、踏み切り足の接地の細かい点にも意識を促した。走り高跳びでは踏み切りの後、右肩からバーへと向かっていくことになる。そのため、踏み切り足の左足はかかとの外側から小指の付け根へ、そして親指の付け根へと体重を乗せていく。これが高く、遠くへ跳ぶために必要な“タメ”をつくるのだ。こうした体の使い方を徹底的に脳と体に染み込ませた。

 福間もまた、彼の身体能力の高さに驚かされた。実はこの踏み切りのトレーニングは、福間が醍醐と試行錯誤しながらつくりあげたものだった。醍醐が完璧にマスターするには3年を要したという。ところが、鈴木はわずか3カ月で自分のモノにしてしまったのだ。
「確かに醍醐の場合は、いろいろなものを取り入れては、いいものだけを残しながら、少しずつ積み上げていったわけですから、長期間に及ぶのは致し方のないこと。そこで完成されたモノを鈴木選手はやればいいだけでしたから、醍醐よりも早くマスターするのは当然のことです。でも、それにしても鈴木選手は早かったですね。自分が苦労してやったものを、鈴木選手があまりにもいとも簡単にやってのけてしまったものだから、醍醐もショックを受けていましたよ」

 福間の指導を受け、鈴木は飛躍的な成長を遂げた。05年パラリンピックW杯で自己ベストの1メートル98センチを跳んで銀メダルを獲得。世界大会では初めて表彰台に上がった。翌年の日本選手権では、当時は世界で2人しかいなかった2メートルの壁を突破し、2年後に迫った北京でのメダルが期待された。だが、07年に痛めた左ヒザが完治しないまま北京に挑んだ鈴木は、メダルには届かなかった。それでも全力を尽くした鈴木は、満足感は得られなかったものの、納得はしていた。本人以上に悔しさを感じていたのは、スタンドで見守った福間の方だったかもしれない。

 走り始めたロンドンへの道

 北京後も左ヒザの痛みに苦しみ続けた教え子を心配していた福間の元に、久々に明るいニュースが飛び込んできたのは昨年12月のことだった。「多血小板血漿療法」という先進治療で左ヒザの痛みがなくなった鈴木が、10カ月ぶりに実戦復帰を果たし、その時のDVDを持ってきたのだ。
「IWAS世界大会から帰国後、すぐに私の所に来たんです。『4年ぶりに痛みがない状態で跳べました!』と、それはもう大喜びでしたよ。とにかく早く私にチェックしてもらいたくて、DVDを持ってきたと。彼の跳躍を見るのは1年ぶりでしたが、よかったですよ。ほとんど練習していないにもかかわらず、いい時のイメージに近い跳躍でしたから。これから焦らずにトレーニングを積めば、ロンドンでは必ず最高のパフォーマンスを見せてくれると確信しました」

 そして、こう続けた。
「私は彼のおかげで走り高跳びの奥深さをより知ることができました。義足を知ることで、より人間の足の構造についてわかったことがたくさんあるんです。ですから健常者の指導法を鈴木選手に伝えるだけでなく、逆に鈴木選手を指導することによって学んだ知識を健常者の指導に役立たせることができる。私は彼を日本陸上界の財産だと思っているんです。そんな彼に出会えた私は、本当に幸せ者です」

 一方、「日本の義足アスリートのパイオニア」と称賛するのは10代の頃から鈴木の義足をつくり続けてきた臼井だ。
「シドニーの頃は、まだあどけない少年で、世界の舞台で不安いっぱいの目をしていました。それが北京では旗手を務めたんですからね。年齢とともに、たくましさが増してきています。彼がプロとして世界で活躍してきたからこそ、今、他の義足選手がそれに続こうとしているわけです。彼自身だけでなく、日本のパラリンピアンの道を広げてくれました。まぁ、プロ宣言をした時には正直、心配しましたけどね(笑)。ところが、本当にプロになったんですから。聞けば、100社以上もまわったとか……。その精神力はすごいですよ」

 メカニックが得意な鈴木は、進化を求めて、義足を自分で分解し、部品をとりつけることもある。理学療法士張りの知識を基にした発想であり、臼井への注文も理にかなった具体的なものだという。今では臼井はほとんど口出しせず、鈴木の要望に沿って調整している。どうすれば、より性能を高められるのか、フィット感を得られるのか、鈴木自身が一番よくわかっている。つまり、鈴木の義足は、完全に彼の足と化しているのだ。それこそ、臼井が目指す“血の通う義足”なのではないだろうか。ようやく左ヒザの不安も解消された。あとは鈴木自身が“挑戦心”と“闘争心”をどこまで高められるかだろう。義足アスリートのパイオニア、鈴木徹が本領発揮するのはこれからだ。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。引退から一転、ロンドンを目指す決意をした北京パラリンピックでのジャンプを描いたアスリートストーリー「現役続行を決意させた北京での一本」とフォトギャラリーはこちらから!

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