サッカー選手にとって、これ以上の勲章はない。昨年7月の女子W杯ドイツ大会で「なでしこジャパン」を世界一に導いたキャプテン澤穂希が女子のFIFA年間最優秀選手賞を受賞した。W杯ドイツ大会で得点王、MVPに輝いたことを考えれば、当然の受賞か。
 男子の年間最優秀選手は3年連続でバルセロナのリオネル・メッシ。
「隣にメッシ選手がいて、自分の名前が呼ばれた時に頭が真っ白で何が何だか分からなかった」と澤は受賞の喜びを語っていた。
 澤と言えば、今や彼女の代名詞ともなっている言葉がある。「苦しくなったら、私の背中を見て」――。

 この名言が飛び出したのは北京五輪3位決定戦前のロッカールームだった。銅メダルをかけた試合への思いを、先輩から順に口にしていった。
 程なくして29歳(当時)の澤にスピーチの出番が回ってきた。
「ここまで来て、もう何も言うことはありません」
 シャイな澤らしい第一声だった。しかし、いつもとはここからが違った。

「苦しいのは皆一緒。もし苦しくなったら私の背中を見て。そして、私と一緒に頑張ろうよ」

 ミーティングの輪の中には、現在の「なでしこジャパン」の司令塔・宮間あやもいた。当時23歳。澤のスピーチを聞いて胸が震えた。
「他のお姉さん方が自分の思いを伝えてくれる中、澤さんは短い言葉で私たちに語りかけてくれた。“私の背中を見て”と。あの言葉は今でも忘れることができません」

 まさに不言実行。澤のリーダーシップを示す上でふたつとないエピソードだが、澤はこの時の様子を、はっきりと覚えていないらしい。
 昨年11月に上梓した自著『夢をかなえる。』(徳間書店)で、こう述べている。

<「苦しくなったら、私の背中を見て」というセリフ、どうやら私がそう言ったように伝えられているみたいですが、一言一句、自分が何を言ったのかは、実はよく覚えていないんです。でも、その場にいた宮間あや選手が、帰国後の記者会見で、
「澤さんは、“苦しくなったら私の背中を見て”というメッセージを伝えてくれた。私は最後の1秒まで、澤さんの背中を見て走り続けた」と語ってくれました。幸運なことに、私が伝えたかったことは、そのまま彼女たちに伝わっていたのです。>

 そして、自らが考えるリーダーシップについて、こう続けている。
<ベテランとして、キャプテンとして、チームを引っ張っていくリーダーシップが私には求められていますが、私の場合、口で「ああして、こうして」と言うのではなく、実際に率先して自分がやっている姿を見せるようにしています。
 グラウンドで自ら表現することが、私の一番の仕事だと思いますし、その姿を見せることが一番、説得力を持って伝えられる方法だと思っています。>(前掲著)

 言葉ではなく背中で仲間を引っ張っていく。スポーツの世界のみならず、企業組織や団体においても理想的なリーダーだろう。
 そんな澤のモットーは「謙虚さ」である。彼女は「謙虚こそ最高の先生」と言ってはばからない。
 だから、受賞後の記者会見でも、真っ先に仲間への思いを口にしたのだ。

「(選手たちからは)たくさんメールをいただきました。(INAC神戸でチームメートの)大野(忍)選手、近賀(ゆかり)選手はすぐにメールをくれました。大野選手はタイトルに『澤バロンドール穂希』と入っていて、『普段一緒に戦えて、仲良くさせてもらえて光栄です』というメールでした。私は『最高の仲間がいてくれたので、取れた賞です』と伝えました。今月にはチームが始動するので、みんなにお礼を言いたいです」

「謙虚さ」をモットーとする澤は、たとえ練習や練習試合であっても一切、手を抜かない。そして、それこそが大舞台でのハイレベルなパフォーマンスにつながっているのではないか、と彼女は考えている。

<「大事な試合」「大事な場面」という言葉を、いろんな人がよく使いますが、前にも書いたように、私にとってはどの試合も大事だし、どの場面も重要なんですよね。全部が「大事」ということは、つまり、全部が「普通」ってことなんです。>(前掲著)

 非日常(W杯や五輪)の輝きは日常(練習や練習試合)の充実の延長線上にあるということか。アジア人初のFIFA年間最優秀選手から学ぶことは少なくない。

<この原稿は2012年2月7日号『経済界』に掲載されたものです>
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