「我に艱難辛苦(かんなんしんく)を与えたまえ」。戦国時代の武将・山中鹿之助の至言だが、まさにこの御仁こそは“平成の鹿之助”だろう。
 ロンドン五輪のピストルで金メダルを目指す松田知幸である。一昨年8月に行われたミュンヘンでの世界選手権では2つの五輪種目を制した。
 五輪ライフル射撃の男子ピストルは50メートルピストルと25メートルラピッドファイアピストル、10メートルエアピストルの3種目からなる。松田が優勝したのは50メートルと10メートル。予選ではそれぞれ60発の発射弾数で点数を競い合う。制限時間は10メートルが1時間45分(男子)、50メートルが2時間だ。予選を勝ち抜いた上位8名がさらに10発ずつ発射し、合計点数で最終順位が決まる。

 最高得点となる10点圏の的は50メートルが直径5センチ、10メートルが同1.15センチ。北京五輪の金メダリストは709点満点で前者が660.4点、後者が688.2点。大げさではなく、たったひとつのミスが命取りとなる。競技者には氷のような冷静さと針のような集中力が求められる。いかにして感情を抑え、邪念を消し去るか。さながら劇画『ゴルゴ13』の世界だ。試行錯誤の末に松田が行き着いたのが「日常での精神修行」だった。

 松田は語る。「たとえば車に乗っていて渋滞に巻き込まれたとします。昔なら“チクショー、何で渋滞してんだよ”とイライラしていたと思うんです。しかし、このイライラこそが射撃においては最大の敵。だから今はこう思うことにしているんです。“よし、イライラしている自分がいる。ここは冷静にならなければならない。ここで気持ちが乱れなければ、試合でも踏ん張れるかもしれない”と……」

 松田は目の前に楽なことと辛いことを必ず2つ設定する。雨が降っている。走るべきか休むべきか。「よし、しんどそうだから走ろう」。坂を上ろうか、下りを走ろうか。「よし、苦しそうだから坂を上ろう」。間断なく精神的な負荷をかけ続け、追い込まれている状況を常態化させる。これぞ究極のストレステストだ。苦行、難行から逃げず、歯向かわず、ただ、ひたすら向き合い、耐えしのぐ。喜怒哀楽を表に出すなどもってのほか。この、いわば“精神の断食”のような修行の向こう側に晴れの舞台はある。もしかすると、松田がロンドンで射抜く的とは己の心なのかもしれない。

<この原稿は12年4月4日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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