1993年にスタートしたJリーグは今年で20年目のシーズンを迎えた。アトランタ五輪代表の“マイアミの奇跡”を皮切りに、4大会連続W杯出場、日本人選手の海外移籍……など、近年、日本のサッカー界は大きな飛躍を遂げている。そのきっかけともなったプロサッカーリーグの創設に尽力し、日本サッカーの発展に貢献したのが川淵三郎(現日本サッカー協会名誉会長)だ。09年にはこれまでの功績を評価され、社会の様々な分野において、顕著な功績を挙げた人物に贈られる旭日重光章を受章している。しかし、当初はJリーグを創設するにあたり、周囲からは反論の声も少なくなかった。今回は逆風の中、川淵氏がどのようにJリーグひいては現在の日本サッカー界の礎を築いたのかを振り返る。
 サッカー日本代表は1998年のフランス大会以降、4大会連続でワールドカップに出場している。
「期待値が低いんだから、選手たちはまわりの評価なんて気にせず、思い切りやればいい。僕には岡田ジャパンがこちらの期待以上の活躍をする予感があるんだけどね」

「岡田(武史)監督にツキがあるとしたら、本田圭佑と出会えたことだろうね。彼はロシアの凍てついたピッチでも全くバランスを崩さないし、当たり負けもしない。ものすごく体幹がしっかりしている証拠だ。僕には中田2世に映るね」
 南アフリカ大会直前、そう語っていた。図らずもその予想は的中した。

 周知のように日本がW杯に出られるようになったのはプロ化以降である。
 しかし、サッカープロ化への道のりは、決して平坦ではなかった。
 91年11月のJリーグ発足前、ある会議で協会幹部がこう発言した。

「サッカーのプロ化というがバブルもはじけ、景気も悪くなってきた。企業もサッカーには投資しにくいのではないか。時期尚早と思われる。
 もうひとりの幹部が続けた。
「日本にはプロ野球がある。サッカーがプロ化で成功した例はない。前例がないことを急いでやる必要があるのか。もっと落ち着いて考えるべきだ」

 すぐさま川淵は席を立ち、反論をぶった。
「時期尚早という人間は100年たっても時期尚早という。前例がないという人間は200年たっても前例がないという」
 この一言がプロ化への流れを一気に加速させたのである。

 日本代表監督に初めて外国人を据えたのも川淵である。92年に代表監督に就任したオランダ人のハンス・オフトが日本代表の近代化に果たした役割は小さくない。
「カズやラモスのようなプロが代表に入った段階で、もう代表監督もアマチュアというわけにはいかなくなった。プロ契約している選手は“僕たちは生活がかかっている”と言えば監督は何も言い返せないでしょう。“そういう考え方の選手は代表に要らない”なんて果たしてカズやラモスに言えるだろうか。それはもう無理だと判断していたんです。
 しかし、いきなり日本人のプロ監督というのも無理がある。カズやラモスと互角に渡り合うには、やはり外国人監督の方がいいだろうと……」

 考えたことは、すぐ行動に移す。そうした川淵の手法には「朝令暮改だ」との批判がついて回った。
 それについて、川淵はこう反駁した。
「朝、こうだと思っても、夜、こっちの方がよかったとわかれば、判断をかえることを恐れてはならない。それでやれ手続きがどうだとか、一度決めたことなんだからという組織は衰退していきますよ」

 Jリーグチェアマン時代、企業名をチーム名から取り除くという川淵の方針には反発が絶えなかった。中でもヴェルディの事実上のオーナーであった渡辺恒雄(読売新聞社社長・当時)はその急先鋒だった。
「プロスポーツにもかかわらず(Jリーグは)商業主義を否定している」

 巨大メディアの総帥の批判にも、川淵は一歩も引かなかった。
「物事は何でも理念があって続いていくわけでね。理念がないのなら、単なるカネ儲けですよ。Jリーグという社団法人をつくるとき、理念に賛同する人が集まり、同じ仲間としてスタートしたわけでしょう。それを批判する方がどうかしている。
“Jクラブに企業名を入れろ”という要求にしたって、じゃあ企業の名前を出したらお客さんが増えるんですか? 市民の賛同者が増えるんですか? と逆に問いたい」

 地域密着の理念に沿って着実に努力を積み重ねてきたクラブが成功し、背を向けたクラブが衰退しているのは周知のとおりである。
 今ではプロ野球をはじめとするサッカー以外のスポーツまでもが「地域密着」の看板を掲げるようになった。

 時に「ワンマン」と呼ばれた川淵が日本のスポーツ界発展のために果たした役割の大きさは計り知れない。

<この原稿は『文藝春秋』2010年9月号に掲載されたものです>
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