昨年11月、韓国で行なわれたロンドンパラリンピック・アジアオセアニア最終予選、日本は準決勝で韓国にわずか1点差で競り勝ち、パラリンピックの切符をつかんだ。その死闘を制した背景には、2つの“ビッグプレー”があったのだ。
(写真:ロンドンでは初のベスト4を目指す車椅子バスケ男子日本代表)

「いやぁ、選手はみんなよくやってくれましたよ。ベンチの選手も含めてね。でも、その中でも、あの2人のビッグプレーは大きかったですね」
 そう言って、岩佐義明ヘッドコーチが名前を挙げたのは、京谷和幸と東海林(とうかいりん)和幸だ。ロンドンパラリンピックの出場権をかけて臨んだ昨年11月のアジアオセアニア地区予選。日本は準決勝で韓国をわずか1点差で破り、ロンドン行きの切符を手にした。この試合、日本の決勝点をアシストしたのが京谷であり、1点差を死守するのに貢献したのが東海林だった。2人のローポインターの“ビッグプレー”とは――。

 京谷がコートに入ったのは、第1クオーターの残り3分。ペースをつかみつつあった韓国に、日本がやや押され気味の状況を打開しようと、岩佐ヘッドコーチは京谷と香西(こうざい)宏昭を投入した。
「自分だったら『勘弁してください』と言いたくなるような難しい場面での交代だったと思います。だから、すごいなと思いましたよ」
 スターティングメンバーとして出場していた東海林がそう思うのも無理はなかった。地元・韓国とのパラリンピックの切符をかけた大一番、完全アウエーの中で、日本はリズムを失いかけていた。

 しかし、経験豊富な京谷にとって、試合の展開も自分の交代も想定内だったという。
「厳しいゲームになるとは思っていましたよ。だから心の準備はできていました。特に気負うことなく、ゲームに入りましたね」
 チームに少しバタつきを感じていた京谷は、「大丈夫だ。慌てずにやっていこう」とチームメイトに声をかけ続けた。すると、徐々に日本の動きがよくなっていった。3度のパラリンピックを経験しているベテランの言葉は、チームにとってやはり大きかった。それは岩佐ヘッドコーチの狙い通りだった。
「京谷はチームに絶対必要な選手なんですよ。経験豊富な彼の言葉はみんな聞きますからね。本当に大事な存在です」
 指揮官の期待に応え、京谷はチームに落ち着きを取り戻させ、ゲームをコントロールしていった。第1クオーターで3点ビハインドだった日本は、第2クオーターを終えた時点で41−39とわずかなリードながら逆転に成功していた。

 決勝点をもたらした“野生の勘”

「実は、韓国戦でベンチワークをミスしているんですよ。“この時”と思った選手交代のタイミングを逃してしまったんです」
 岩佐ヘッドコーチが言う“この時”とは、第3クオーターだった。残り4分となったところで、指揮官の“勘”が働いた。試合の流れ、選手の疲労度合いを見てのことだろう。岩佐ヘッドコーチは交代のタイミングだと思ったという。ベンチに下げようと考えていたのは香西と京谷だ。だが、香西は意気揚々とシュートを決め、そして司令塔の京谷は疲労を見せながらも、うまくゲームをコントロールしていた。ガッチリとかみ合っている布陣を、岩佐ヘッドコーチは替えることはできなかった。そして、この“ためらい”が結果的にビッグプレーを生み出した。

 日本2点リードで迎えた第4クオーター、「この布陣で戦う」と腹をくくったのだろう、岩佐ヘッドコーチはやはりメンバーを替えることはしなかった。序盤、日本のゴールラッシュとなり、最大9点のリードを奪った。ところが中盤以降、韓国が猛追し、残り3分を切ったところで、ついに逆転を許してしまった。そこからは取って、取られてのシーソーゲームが展開された。そして、最後に2つの“ビッグプレー”が飛び出したのである。

 残り35秒、日本が1点ビハインドのところで岩佐ヘッドコーチがタイムアウトを取った。タイムアウト明け、コートに戻った5人は、残り時間から、あとワンプレーの勝負と考えていた。阿吽の呼吸で、エース藤本にボールを集めるフォーメーションで攻めた。京谷は藤本に楽な姿勢でシュートを打たせようと、スクリーンをかけにいった。すると、藤本がシュートを打ちにいった瞬間、京谷はなぜか嫌な予感がしたという。
「野生の勘とでも言うんでしょうか……。なんだか藤本のシュートがリングから嫌われるような気がしたんですよ」
 ふと見ると、右側のゴール下にぽっかりと空間があった。京谷は一目散にその空間へと突進していった。すると、京谷の勘が的中し、藤本のシュートが外れた。そして、ボールはゴール下に詰めていた京谷の元に跳ね返ってきたのだ。

 一瞬、自分でシュートを打とうかと思ったが、左のゴール下から「京谷!」という声が聞こえてきた。見ると、左のゴール下に宮島徹也が詰めていた。すぐにパスを送ると、宮島がきっちりとシュートを決め、日本が再び1点を勝ち越した。
「あれは京谷でなければ、できなかったプレーですよ。京谷だから、あそこに詰めていたんだと思います。やっぱり、彼にはもっているものがあるんでしょうね」
 そう言って、岩佐ヘッドコーチはベテランの粋なプレーに目を細めた。

 韓国から奪った10秒

 残り17秒。ここで韓国がタイムアウトを取った。この時、東海林はディフェンスの重要性を感じていた。
「残り時間を考えると、韓国に1本でも決められてしまえば、日本が逆転するのは難しい。とにかくディフェンスが重要になると思ってコートに入りました」
 タイムアウト明け、韓国はチーム随一のポイントゲッターにボールを入れた。それを見透かしたように東海林が素早くドリブルカットし、すぐにルーズボールを追いかけた。同様にボールを追う韓国の選手との激しい競り合いとなった。もつれあった末に、東海林の車椅子がボールの上に乗りあげてしまった。バイオレーションと見なされ、結局、韓国ボールとなった。だが、この間に約10秒が経っていた。この10秒が、最後に効いたと岩佐ヘッドコーチは語る。

「東海林がカットしたボールが、ちょうど私の方へと向かってきたんです。そのルーズボール目がけて、東海林と韓国の選手とが必死に食らいつこうとするわけです。もう、『取れぇ!』と私も熱くなってしまいました。結局、マイボールにはできませんでしたが、あの東海林が稼いでくれた10秒というのは本当に大きかったですよ」

 残り7.8秒。日本はとにかく必死で守り続けた。なんとかエースにシュートを打たせようとする韓国に対し、ちぎれんばかりに腕を伸ばし、プレッシャーをかけ続けた。そして、運命の残り0.3秒。相手エースがシュートを打つところを、宮島が痛恨のファウル。韓国に2本のフリースローが与えられた。
「さすがに、これで引退かな、と思いました」とは、ベテランの京谷だ。ロンドンをバスケ人生の集大成と考えていた京谷はこの時、引退も覚悟したという。

 だが、周囲の異様な喜びように逆にプレッシャーを感じたのだろう。韓国の若きエースはフリースローを2本とも外してしまった。試合終了のブザーが鳴り響くと、それまでアドレナリンが放出されていた東海林の全身からは、一気に力が抜けていった。

 チームを支える2人の存在

「実は京谷を最後まで出し続けるつもりはなかったんです。でも、彼だからこそ、あの試合を作ってくれていた。それを壊したくなかったんです。正直、彼が疲れていることはわかっていました。でも、もうそこは京谷もわかってくれていたと思います。アイコンタクトで『オマエがやるしかないだろう』と」

 京谷もまた、指揮官の思いは十分に理解していた。
「正直、最後の方は疲れて、相手の動きについていけなくなっていた部分もありました。でも、あのプレッシャーのかかる場面に途中から入ってプレーするというのは、よっぽどメンタルが強くなければできません。だったら、もう自分が踏ん張るしかないだろうと。これまで日の丸を背負ってやってきたプライドが体を動かしていたと思います。それに、一番大事な試合に自分を信頼して起用してくれた岩佐ヘッドコーチの気持ちにも応えたいと思ったんです」

 一方、東海林に対して岩佐ヘッドコーチは“ビッグプレー”を繰り返した。
「東海林は、得点という点では目立たないかもしれませんが、本当にチームに貢献してくれているんです。まさに“陰の功労者”。韓国戦でのあのドリブルカットは、チームを救ってくれた“ビッグプレー”でしたよ。あのプレーは、忘れられません」

 当の本人は自らの役割をこう語っている。
「自分のプレーでチームが勢いに乗ったり、いい流れにいくようにということを心掛けています。特にエースの(藤本)怜央が気持ちよくプレーできるような状況をつくること。それが僕の仕事であり、そこを買ってもらったからこその代表内定だと思っているんです」

 京谷も東海林も、決して派手なシュートを決めるわけではない。しかし、彼らのようなピンチの時こそ頼れる存在であるベテラン、エースを支える献身的なプレーに徹するアシストマンは、チームには不可欠だ。そして、車椅子バスケットボール男子日本代表の強さが、そこにある。

(斎藤寿子)

※「The Road to LONDON」はNPO法人STANDとの共同企画です。ロンドンパラリンピック行きを決めた韓国戦を描いたアスリートストーリー「ロンドンへの道を切り開いた“和”の極み」とフォトギャラリーはこちらから!

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