おそらく日本中の視聴者があるシーンを脳裡に思い浮かべたに違いない。
 今年1月に行われたシドニー五輪選考を兼ねた大阪国際女子マラソン。日本の弘山晴美は35km地点でスパートをかけ勝負に出たものの、シモンの驚異的な粘りにあい、競技場に入る直前で逆転されてしまう。
 このとき、シモンは氷のような表情を少しも緩めることなく、次のように言い放った。
「私の方が少し根性があったようね」
<この原稿は2000年11月の『月刊現代』に掲載されたものです>

 高橋とシモン、ふたりだけに並走は、約6kmにわたって続いた。経験豊富で勝負強いシモンのこと、彼女がスパートをかけたとき、そこでレースは終わる。逆に言えば、勝てると100パーセントの確信を得たときにしか彼女はスパートしない。
 勝つ確率を1%でも高めるためには少しでもスパートのタイミングを遅くしたい。ギリギリまで高橋についていって、できれば競技場での勝負に持ち込みたい。シモンはこのようなシナリオを描いていたはずだ。
 もちろん、高橋がそれを知らないわけがない。高橋にすれば、早めに厄介な背後霊を振りほどき、ひとり旅の状況を作りたい。自らの影を踏まれるレースとの訣別のタイミングを高橋は慎重に見計らっていた。
 それが35kmだった。緩やかな上り坂を前に、高橋がサングラスを放り捨てた。それを合図に3度目のスパートをかけた。いよいよシモンを斬り捨てにかかったのだ。
 あとでわかったことだが、高橋がサングラスを投げつけた相手は父親の良明さんだった。先導するバイクに当たり、サングラスはその場にコロンと転がったが、この地点に父親がいたということは、いったい何を物語るのか。

 深読みすれば、父親は大切な任務をおびていたということになる。大阪国際女子で弘山がシモンに抜かれかけたとき、コーチでもある夫の勉はその場に居合わせることができなかった。逃げる弘山は後ろから迫るシモンとの距離を正確に把握することができなかった。35km地点を観戦の場所に選んだ父親の思いとは、いかなるものだったのだろう。それともただの偶然だったのか……。
 それについてレース後、高橋はこう語った。
「30kmくらいから、もうサングラスをはずしたいなって思っていたんですけど、知り合いがいなかったので監督を捜してたんです。監督が見当たらなかったので、どうしようとキョロキョロしていたら、身内というか親がいるのがわかったので、親のほうへ思いっきり投げたんです。バイクの人にぶつかって跳ね返ってきて戻ってきちゃったんで『あっ、戻ってきちゃった』と思ったときにちょうどシモンさんが少し遅れたので、いい具合にスパートしたみたいなかたちになったんです」

 35km地点でのスパートは、もちろん競技場での勝負を避けたい気持ちからきたものだった。
 レース後、小出はこんな秘策を明かした。
「私たちね、32kmのところに宿舎をとってたの。ここで毎日、朝夕2回、(アップダウンが続く)32kmから37km地点の5kmをスパートする練習をしたんだ。『ここが勝負だよ、ここが勝負だよ』と言いながらね」
 それを受けて、高橋は言った。
「私はアップダウンが好きなので、32kmから35kmの間に少しでも離したいと思った。シモンさんは(米ボルダーの)練習で見ていても強い人だとわかっていたし、トラックまでは一緒に行きたくないと思っていました……」
 後半の難所でのスパート。自信の裏付けは米国コロラド州ボルダーでの高地トレーニンにあった。高橋は空気の薄い3500mの高地で走り込みを行なった。
「マラソンはね、毛細血管がすべてなんだよ」
 小出がこうつぶやくのを、何度か聞いたことがある。アフリカの高地で生まれ育った選手と比べた場合、心肺機能の面でハンディキャップを抱えるというわけだ。
――苦しいレースだったか?
 という質問に、高橋はサラリと答えた。
「練習ではもっとハードなコースを走っているので、それほどハードだとは思っていませんでした」

 シモンとの差は見る見るうちに広がり、39km付近では100mもの差をつけた。タイムにして約27秒差。金メダルがはっきりと見えてきた。
 競技場に入る直前、高橋は何度か後方を振り返った。シモンとの距離を確認したかったのだろうが、うまく彼女の姿をキャッチすることはできなかった。
 スタートしてから、2時間21分20秒後に高橋はメインスタジアムに足を踏み入れた。2台ある大型のスクリーンに彼女の姿が映し出された瞬間、祝福の歓声と拍手が巻き起こった。
 シモンの粘りもまた立派だった。一縷の望みを信じて、最後の体力をしぼり切るようなスパートを演じた。
「ウァア、まずい。逃げろ」
 トラックに入り、シモンの姿をやっと目でとらえることができた高橋は、ほんの少し焦った。
「もう1周あったら負けていたかもしれません」
 師弟揃って、そう口を揃えた。勝てばこそ、口にできたセリフだった。

 マラソンとは人生の縮図である――。かつてはそんな表現が大手を振ってまかり通っていた。苦しさに耐え、粘って、粘って、最後に勝利を掴む。テレビの「水戸黄門」ではないが、印籠をここぞとばかりに出すシーンを見て溜飲を下げるには、前半部分の苦節に耐えなければならない。抑圧が強ければ強いほど、カタルシスもまた大きい。マラソンにも同じことが言える。
 しかし、高橋尚子は、花登筐風のドラマとは無縁のランナーである。駆けっこが好きで好きでたまらない、と表情に書いてある。名誉が欲しいために走るのではない。ただ走るという行為が好きなのだ。金メダルはあくまでも、自らの表現行為の結果に過ぎない。
 翌日の朝、目を覚ました高橋は少しばかり慌てた。大切な金メダルがどこにもないのだ。あたりをキョロキョロとうかがって、床に光るものがあった。
「なぁんだ、ここに落ちていたのか」
 無頓着な高橋にとっては、迷子になっていた子犬が戻ってきたくらいの心境だったのかもしれない。

「駆けっこが好きで好きでたまらない」
 とは、実は小出義雄監督がしばしば口にするセリフである。
「オレはとにかく走るのが3度のメシより好きなんだ。この気持ちだけは、お前らには絶対負けないからな」
 選手に、そう啖呵を切るのを何度か聞いたことがある。
 監督は選手に何かひとつ勝つものがなくてはならない。というのが小出の持論である。もちろん、小出の場合、それは「走ることへの情熱」である。
「私は今でも毎日10kmのジョギングを欠かしません。なぜなら走ることが好きで好きで仕方がないからです。雨、風、嵐、そんなものはまったく平気で、二日酔いでヘドを吐いても走る。
 毎日の生活でも、とにかく、寝ても覚めても練習のこと、レースのことばかり考えている。それ以外のことを考えている時間はありません。
“あの子は、これだけ走らせたらタイムが20秒伸びた。あと1年間は、こういう練習をさせて、それから次は……。よし、シドニーでメダルだな。よしよし”こんなことを考えているのが、私の至福の時間なんです。寝ながらでも、こんなことを考えています。我ながら、ほとんど病気だなと考えることもありますよ」

 私は高橋尚子が小出門下に加わって間もない頃のことを今でも鮮明に覚えている。
 小出は私に「今度、岐阜からきた子がいるんだけど、この子は必ず強くなるよ。まあ、見ていて下さいよ」と言ったのだ。
 その理由が振るっていた。いや、おかしかった。小出は私に歴史の話を好んでするのだが、このときはこんな“持論”を展開した。
「ねえ、織田信長にしろ、豊臣秀吉にしろ、徳川家康にしろ、戦国時代に天下をとったのは美濃、尾張、あるいは三河の人間で、みな中部地方の人間だ。なぜだと思う」
 返答に窮していると、小出は自ら話を引き取った。
「オレが思うに、食べ物がよかったんじゃないかな。あのあたりは魚介類が豊富で、戦国時代、他の地域の下級武士や百姓がアワやヒエを食べているとき、あの地方の人間は魚介類を主食にしていたというんだな。魚介類にはカルシウムが豊富に含まれている。頑強な骨や肉体は親から子へ、子から孫へと受け継がれていくものなんだ。だから、この子にも期待しているんだよ」
 別に魚介類を食べているのは中部地方の人間だけではないと思うのだが、小出の語りには有無を言わせぬ迫力があった。選手への強い思いこみと肩入れが、言葉に赤い血を通わせていた。
 私が思うに、指導者としての小出の究極の理想は「勝つランナー」をつくることではなく、「最強のランナー」をつくることにあるのではないか。その意味での高橋尚子の出現はマラソンの概念をも変えたと言える。

 マラソンランナー・高橋尚子の最大の魅力と強みは自らのレースをつくり、仕掛けていく点にある。それは相手のペースを破壊することと同義である。彼女がスパートをかけたが最後、まるでマシンガンをぶっ放したようにマラソンロードは死屍累々、ぺんぺん草も生えない荒野と化す。
 美しき破壊者――。私は彼女にそんなイメージを抱いている。無邪気な笑顔ほど残酷なものはない。無慈悲な疾走ほど耽美なものはない。

(おわり)
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