2012年10月25日。金子侑司にとって、運命の日が訪れた。プロ野球新人選択会議。いわゆる「ドラフト会議」である。意外にも前日まではさほど緊張していなかったという金子だが、さすがに当日は会議の時間が近づくにつれて、徐々に緊張感が増していった。そして17時、会議がスタートした。金子は高鳴る鼓動をどうすることもできないまま、ただただ、見守るしかなかった。そして、待つこと約1時間半後、ついに“その時”が来た。
「埼玉西武 金子侑司 内野手 立命館大学」
 待ち焦がれたプロへの扉が開かれた瞬間だった。
「良かったぁ……」
 金子が胸をなでおろしていた時、京都府内の実家では喜びに包まれていた。
「今年は1年間、ずっと調子が悪くて結果を出していなかっただけに、名前を呼ばれるかどうか心配でした。でも、3位に指名されて、嬉しかったですよ」
 電話口の向こうの父・正祐(まさひろ)の声は落ち着き払っていたが、喜びはひとしおだったことは想像に難くない。

 実は金子は1度、野球を辞めたことがあった。小学4年の時に友人に誘われ、隣町のチームに入ったのだが、当時はラグビーもやっていたため、なかなか練習に参加することができなかった。それに対していろいろと言われることが嫌で、チームを辞めたのだ。そのため、金子の野球に対するイメージは決してよくはなかった。当時はラグビーに夢中になっていたこともあり、野球を嫌いになりかけたという。

 そんな金子に手を差し伸べたのが、父の正祐だった。もともと野球をしていた正祐は自らチームを作り、子どもたちに野球を教え始めた。金子はそこで野球の楽しさを知ったのである。
金子いわく「おそらくラグビーよりも野球をやってほしかったと思っていた」という父・正祐にとって、プロからの指名という朗報は感慨深いものがあったのではないか。

「その日は仕事でバタバタしていて、ほとんど緊張はしなかった」という父・正祐とは裏腹に、母・仁子(じんこ)は「もう心臓が止まりそうなほど、緊張していた」という。
「その日はドラフトが始まる時間に間に合うように、全てを終わらせたんです。娘にも早く学校から帰ってくるように、と言ったりして、一人でテンションが上がっていましたね(笑)」
 次々と選手の名前が呼ばれていく中、母・仁子は「呼ばれんかったら、どうしよう……」と不安な気持ちを必死でおさえながら、テレビを見つめていた。そして、ついに息子の名前が呼ばれた時、もう嬉しさがこみ上げて仕方がなかったという。それは今年1年間、苦しい息子の姿を見てきてからに他ならなかった。

 野球人生最大の試練

 昨年、金子は春3割8厘、秋3割3分3厘という高打率をマークした。
「よし、これならプロにも指名してもらえるやろう」
 1年後のドラフト会議で自らの名前が呼ばれることを、その時の金子は信じて疑わなかった。
調子の良さは4年になったオープン戦でも続いていた。金子は意気揚々とリーグ戦に臨んだ。ところが開幕した途端、彼のバットから快音がパタリと止んだのだ。その理由は自分でもよくわかっていた。

「4回生の春のリーグが一番大事だということを言われてきていたこともあって、結果を求めすぎたのだと思います。三振をしたくないばかりに、当てにいって、内野ゴロ……。まったく自分のスイングができませんでした」
 焦れば焦るほど、悪循環に陥っていく自分をどうすることもできなかった。
 秋に入っても、金子の調子はなかなか上がらなかった。それでもライバル同志社大との最終戦で本塁打を含む4打数3安打1打点をマークし、チームの勝利に大きく貢献。ドラフト会議を3日後に控えて、なんとか有終の美を飾ることができた。

 しかし、とうてい納得のいく1年間ではなかった。今年はこれまでの野球人生で経験したことのない苦しみを味わったという。そんな彼を支えてくれたのが家族だった。
「愚痴を言ったり、弱音を吐いたりするようなことは一度もありませんでしたが、両親は僕が苦しんでいたことはわかっていたと思います。もし、一人だったら野球を辞めていたかもしれませんね。とにかく、家族には支えてもらって本当に感謝しています」

 恩師の厳しさあっての成長

 そしてもう一人、金子が感謝してもしきれない人物がいる。立命館宇治高校時代の恩師、卯瀧逸夫である。卯瀧はそれまでに北嵯峨、鳥羽と計8度、甲子園に導いていた。そんな卯瀧が立命館宇治に赴任してきたのは、金子が2年の春だった。果たして、金子の卯瀧への第一印象は――。
「はじめはニコニコと笑顔だったので、『うわぁ、むっちゃ優しい人が来た』と喜びましたね」
 だが、そんな気持ちはすぐに消え去った。
「とにかく、よく叱られました。『オマエのプレーは軽い!』とか、もうボロクソに言われましたよ。しかも、みんなの前で。正直、むかつきました。『なんやねん。なんでそんな言われなあかんねん!』って。辞めてしまおうかと思ったくらいです」

 しかし、金子は辞めなかった。「絶対に見返したる!」。それまで練習嫌いだった金子の野球への姿勢は、徐々に変化を遂げていった。それは卯瀧が期待していた通りの成長だった。
「彼は2年生にして既にチームの中心メンバーでした。ところが、ちょっとわがままなところもあったんです。でも、頭のいい子でしたから、言えばわかってくれるだろうと。2年生の時の1年間は本当によく叱りましたね」

 実は卯瀧は、金子が中学の頃から目をかけていた。
「彼が中学3年の時、私は京都すばる高校の総監督をしていました。そこで、人づてに『足の速い子がいる』ということを耳にしていたんです。しかも、その子は8月の半ばを過ぎても、まだ進路が決まっていないという。だったら、うちに来てもらえるかどうか、一度見てみたいなと思っていたんですよ」

 結局その後、金子は立命館宇治への進路が決定し、卯瀧は金子を見ることはなかったという。しかし、よほどの縁があるのだろう。卯瀧が立命館宇治に赴任する前年の秋季府大会、卯瀧が総監督を務めていた京都すばるは一次戦2回戦で、立命館宇治と対戦しているのだ。
「その試合では確か1年生の金子は外野手として出場していたと思います。その時が彼を見た最初だったのですが、『ウワサ通りに足が速くて、肩も強い、いい選手だな』という印象でした」
 約半年後、卯瀧は運命の糸に導かれるように、立命館宇治に着任し、金子の目の前に現れたのである。

 卯瀧が最も印象的に残っているのが、金子が3年の夏、決勝で敗れた後に後輩に向けて言ったひと言だった。
「卯瀧監督についていけば間違いない」
 これには驚きを隠せなかったという。
「いやぁ、彼が2年生の時の1年間は、とにかく叱り倒しましたからね(笑)。まさか、そんなことを言ってくれるとは思いもしませんでしたよ」

 しかし、金子にとってその時は既に卯瀧への信頼は計り知れないものとなっていた。
「僕にとって、高校2年の1年間は本当に大きいんです。それまで僕は練習がイヤで、すぐに帰ったりしていました。でも、卯瀧先生に練習することの大事さを教わってからは変わりましたね。最初は何で叱られているのかわからずにむかついていましたけど(笑)、徐々に自分自身がうまくなっていっていることを感じるようになってからは、先生の言っている意味を理解することができるようになりました。大学に入ってからは自主性を求められましたが、きちんと自分で考えて練習することができたのも、高校時代の卯瀧先生の指導のおかげなんです」
 さまざまな人たちへの感謝の気持ちを胸に、今、金子はプロへの道を進もうとしている。

(後編につづく)

金子侑司(かねこ・ゆうじ)
.1990年4月24日、京都府生まれ。小学1年からやっていた水泳、ラグビーに加えて小学5年から野球を始める。中学時代は硬式野球チーム「京都ライオンズ」に所属。立命館宇治高校に進学し、3年時の夏には府大会決勝に進出した。立命館大学では1年春からベンチ入り。1年秋、2年春には日本代表候補の合宿に参加し、3年夏の日米大学野球選手権では初めて日の丸を背負う。50メートル5秒8の俊足をいかした走塁が武器。178センチ、67キロ。右投、両打。

(斎藤寿子)
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