今年1月からスタートの新コーナー「裏方NAVI」では、世界で活躍するアスリートたちを支える人たちにスポットライトを当て、知られざる専門知識や巧みな技に迫ります。今回は、フィギュアスケートの国際大会を陰で支えている坂田清治氏。選手たちのパフォーマンスに欠かすことのできないフィギュアスケート靴を矯正し、ブレード(刃)のエッジを100分の1ミリ単位で各選手に適した形状に研磨する職人だ。
 2010年バンクーバー五輪のメダリストである高橋大輔(銅)や浅田真央(銀)に加え、羽生結弦、村上佳菜子といった若手が台頭するなど、男女ともに群雄割拠の時代を迎えている日本のフィギュアスケート界。1年後のソチ五輪での活躍に期待を寄せる声も膨らんでいる。選手たちの美しく、高度なパフォーマンスを支えているのは、コーチや振付師、トレーナーだけではない。氷上で共に戦うパートナーとも言うべきスケート靴、そのメンテナンスを引き受けている坂田もそのひとりだ。

 フィギュアは感覚の競技

「先生! すみませんが、急いで見てもらえますか?」
 取材終盤、大きな箱が4つ運び込まれた。入っていたのは、フィギュアスケート靴だ。
「佳菜子ちゃんからなんですけど、今度の全日本選手権(2012年12月)に履くかもしれないので、この中から選んでほしいそうなんです」
 なんと、運び込まれたのは、今や世界のトップ選手となった村上佳菜子のスケート靴だった。
「これとこれだな」
 それぞれの靴を箱から取り出し、チェックした坂田は、迷うことなく2つの靴を指さした。素人の目からは、どこに違いがあるのか皆目見当がつかないほどの微妙な違いを、彼は手に乗せただけで見抜いてしまったのだ。これぞ、匠の為せる技である。

(写真1:フィギュアスケート靴に付けられるブレード)
「フィギュアスケートは感覚の競技」と言う坂田。そのため、ささいな変化にも選手たちは敏感に反応する。例えば、靴ひもだ。日本人で初めて4回転ジャンプを成功させた本田武史はこう語っている。
「靴ひもは滑っていくうちに、少しずつ伸びていくんです。選手の中にはその伸びた感じがいいという人が結構多い。逆に新しいひもは締まりが良すぎて、嫌う選手は少なくありません」

 靴ひもと言えば、記憶に新しいのがバンクーバー五輪での織田信成だ。演技の途中で、靴ひもが切れてしまい、中断してしまったのだ。もともと切れていた靴ひもを結び、つなげていたという。周囲から見れば「なぜ、新しいひもにしなかったのか」と疑問に思うが、織田はいつもの感覚を失いたくなかったのだろう。

 その靴ひも以上に、ささいな感覚のズレがパフォーマンスに大きく影響するのが、ブレード(写真1)である。坂田は各選手の身長、体重、レベルはもちろん、気候条件やリンクの氷の硬さを全て考慮し、100分の1ミリ単位で磨き上げる。彼いわく「ブレードを研ぐ人はたくさんいる。でも、正確にきれいに研ぐことのできる人は、世界に5人もいない」。彼が知る限りにおいては、海外にはドイツに1人いるだけだという。

 エッジに潜むジャンプへの影響

 では、坂田はどこで世界にも希少な職人技を身に付けたのか。それは故郷・新潟だった。坂田は高校生の時から、親戚が営んでいた時計屋を手伝わされた。そこでは1000分の1ミリ単位の精度が求められ、坂田の技術はここで磨かれていったのである。フィギュアスケート選手でもあった坂田は大学卒業後、上京してインストラクターとしての道を歩み始めた。そんなある日、師事していた先輩インストラクターから「こんなものを作れないだろうか」と見せられたのが、ドイツ式の研磨装置だった。それは従来、米国やカナダで使用されていた研磨装置とは異なっていた。
(写真2:米国やカナダで使用されてきた円盤型の研磨石を使った装置)


 それまで主流とされていた研磨装置(写真2)は回転している円盤形の研磨石にブレードをあてて研ぐ方式だった。しかし、坂田がドイツ式の模型図を見て、開発した研磨装置は、垂直に回転させた円錐台の研磨石にブレードをあてて研ぐ「バーティカル型」(写真3)だ。これにより、円盤では不可能だったトゥピックに当たるエッジの最先端部分(写真4)まで均一で滑らかに研ぐことができるようになったのだ。このことが、選手のパフォーマンス向上に大きく影響している。
(写真3:坂田氏が開発した「バーティカル型」研磨装置)

 フィギュアスケート靴のつま先部分に付いているトゥピック(写真5)は、「トゥジャンプ」と言われる「ルッツ」「フリップ」「トゥループ」の3種類のジャンプ時に使用する。ギザギザの刃の部分を氷に突き立てて跳ぶのだ。一方、「アクセル」「ループ」「サルコー」は「エッジジャンプ」と呼ばれ、トゥピックを使わずに、ブレードのエッジのカーブを利用し、踏み切って跳ぶ。
(写真4:トゥピックとの境目となるエッジの最先端部分)


 特に「エッジジャンプ」で重要なのが最後まで氷をつかんでいるエッジの最先端部分だ。この部分は、全ジャンプの着氷時には、最初に氷をつかむ。そのため、この最先端部分がへこんでいたり、波をうっていると、踏み切る時や着氷の瞬間に、ガクンと体のバランスを崩してしまうのだ。つまり、ここの感覚が狂うと、ジャンプに大きく影響する。
(写真5:「トゥジャンプ」で使用されるトゥピック)

 ところが、従来の円盤型ではトゥピックにぶつかり、先端部分との間に隙間ができるために研磨石があたらず、最後まで滑らかに研ぐことができなかったのだ。これではジャンプの踏み切りや着氷の際に安定した姿勢を保つことが難しい。こうした実情を改善した装置が「バーティカル型」である。

 知られざる靴の歪み

 さて、ブレードの研磨技術に注目を浴びる坂田だが、実はブレード以上に重要なことがある。それは靴だ。これは意外にも知られていないという。
「靴は家の土台と同じ。いくらきれいに研いだブレードをつけたところで、靴自体が歪んでいれば、いい演技はできません」
 その微妙な歪みを調整することも、坂田の重要な仕事だ。そこにも独自の技術がある。

 選手それぞれによって異なるものの、フィギュアスケート靴は見た目以上に硬い。硬さを好む選手の靴は、まるで石膏のようだ。そのため、歪み矯正の作業は、靴を軟らかくすることから始まる。そこで使用するのがオーブンレンジ(写真6)である。ごく一般の家庭で使用されているオーブンレンジを使用するのだが、高熱を加えすぎると、樹脂が溶けてしまう。どれほどの熱を、どれほどの時間、加えればいいのか……その答えを導き出すには、相当な苦労を要した。
(写真6:一般の家庭用で使用されるオーブンレンジでスケート靴を軟らかくしている)


「何個も靴をダメにした」と坂田。研究の結果、靴の種類にもよるが、基本的には予熱なしの状態で170度を7分間、これがベストだという。その軟らかくなった靴を坂田が開発したという圧縮装置(写真7)でおおよその形状を整える。その後の微妙な調整は手作業で行なう。
(写真7:坂田氏が開発した圧縮装置で靴の歪みを矯正する)

 この靴の歪み矯正によって、坂田は多くの選手のパフォーマンスを支えてきた。それは国内選手に限ったことではない。
「この靴を見て欲しいんです!」
 06年11月27日、韓国から坂田を訪ねてきた選手がいた。キム・ヨナ(韓国)である。金メダルに輝いたバンクーバー五輪の約3年半前のことだった――。

(後編につづく)

坂田清治(さかた・せいじ)
1947年10月6日、新潟県生まれ。新潟大学卒業後、品川プリンスホテルのアイスショーなどで活躍。大和証券に勤めた後、米国にコーチ留学をする。79年からはプリンスホテルの専属インストラクターとなる。98年長野五輪では強化コーチを務めた。代表取締役社長を務める衣装や靴などの輸入・販売店「株式会社ユニバーサルジャパントレーディング」で、フィギュアスケート靴のメンテナンスを行なっている。

(文・写真/斎藤寿子)
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