“魂のストライカー”がプロ19年間の現役生活に幕を下ろした。昨年12月、コンサドーレ札幌のFW中山雅史が引退を発表した。中山はジュビロ磐田のエースとして、チームの黄金期を支え、Jリーグで3度の年間優勝に貢献。リーグのMVPを1度(98年)、得点王を2度(98、00年)獲得している。J1通算157得点は史上最多だ。日本代表でも中心選手として活躍し、W杯には2大会(98、02年)に出場を果たした。近年の日本サッカーの歴史は、中山の存在抜きには語れない。彼の代表での21ゴールの中から特に印象に残る2つのゴールを、11年前の原稿で振り返る。
<この原稿は2002年6月発行の『英雄神話』(徳間書店)に掲載されたものです>

 もし“日本代表魂”というものがあるとしたら、あの時に生まれたのではないか。
 私はそう確信している。

 1993年10月18日ドーハ・カリファスタジアム。
 アメリカワールドカップ、アジア地区最終予選。日本代表の“スーパーサブ”である中山雅史はイラン戦の後半28分に投入された。
 0対2と2点のビハインドで迎えた敗色濃厚の後半43分、中山は福田正博がタテに出したボールをラインを割る寸前にスライディングして止め、そのまま角度のないところからポストぎりぎりに振り向きざまのシュートを決めてみせた。それが最終予選における代表の初ゴールだった。
「行ける! まだ行けるぞ!」
 ボールを小脇に抱えた中山は、チームメートを大声で叱咤しながら、センターサークルに走った。逆転こそならなかったものの、この中山の気迫が、意気消沈していたチームに喝を入れた。

 続く北朝鮮、韓国戦に連勝し、オフトジャパンは最後のイラク戦にアメリカ行きの望みをつないだ。中山の闘志が死に馬を走らせたのである。
 そして迎えたイラク戦、日本は中山の2点目のゴールで勝ち越すが、ロスタイムで追いつかれ、搭乗手続きまですませていたアメリカ行きのチケットを手から滑り落としてしまうのである。俗に言う“ドーハの悲劇”である。
 その瞬間、ベンチに下がっていた中山は天を仰ぎ、身も世もないとばかりに顔を覆った。放心と絶望が硬直した全身を包んでいた。

「1993年10月、サッカー日本代表」と書かれてある古いノートが手許にある。
 帰国直後、本人にインタビューを試みた。今読み返しても、中山の無念さが伝わってくる。
――聞きにくいことだが、あの(同点に追いつかれた)瞬間の気持ちは……。
「……ぼくはあの瞬間、自分の情けなさを痛感しました。なぜなら、あそこでベンチから仲間に“まだ時間はあるぞ!”と冷静に声をかけられなかったからです。
 たとえベンチにいても、ぼくはイラン戦のように振る舞わなければいけなかった。それができなかったのは、自分がまだまだ発展途上の証拠だということでしょう。今は神から与えられた試練だと思うことにしています」

 中山は忘れているだろうか。私はこの時、折りたたみ式のカサを彼にプレゼントした。インタビュー相手にプレゼントを持って行ったのは、後にも先にもこの時しかない。
 それくらいイラン戦でのプレーに深く感動したのである。自分の気持ちを、何かにたくそうとして折りたたみカサを思いついた。
「人生、晴れた日ばかりじゃないから……」
 そう言って手渡すと、中山は例の人懐こい笑みを浮かべてこう言った。
「雨、雨、降れ、降れ、もっと降れ……くらいの強い気持ちが必要なんでしょうね。今回はワールドカップに出られなかったけど、30歳がダメなら34歳、34歳がダメなら38歳……諦めさえしなかったら、いつか夢はかなうと思っています」

 5年後、フランス――。
 1998年6月、日本は初めてワールドカップに出場したものの、アルゼンチンに続いてクロアチアにも敗れ、早々とグループリーグ敗退が決まった。やはりというべきか、世界の壁は厚かった。
 残るはリヨンでのジャマイカ戦のみ。
 グループリーグ敗退が決まった時点で、日本代表の目標は「悲願の初勝利」に切り替わった。そのためには、まず1点をとらなければならない。なにしろ2試合を戦い終えても、日本は依然としてスコアレスのままなのだ。遠いゴールは、改めてストライカー不在を浮き彫りにした。
 余談だが、岡田ジャパンは結果(ゴール)よりも手続き(システムや戦術)を大切にする空気があり、さながらそれは、ひとつ決め事をするのにハンコが5つも6つも必要だったり、まっさらな稟議書が役員の机に届くまでには真っ黒になっていたりするこの国の社会システムにも似て、ストレスを内包するものだった。

 0対2で迎えた後半29分、日本の初ゴールは中山の右足によってもらたされた。呂比須ワグナーのヘディングを、それこそ全身の力を右足に凝縮してネットに突き刺した。彼らしい実に泥臭い、だからこそ胸が震えるようなゴールだった。ゴールを決めた中山は、すっくと立ち上がって、同点、そして逆転を信じてセンターサークルに走った。5年前のイラン戦のシーンが、私の脳裡のスクリーンに上映された。
 イラン戦しかり、ジャマイカ戦しかり。中山のゴールはチームに勝利をもたらせるものではなかった。しかし、と思う。あの2つのゴールは、この国の代表が未来を築く上で、なくてはならない“捨て石”ではなかったか。

 一矢を報い、万兵を挙す――。
 魂のストライカーに、敬意を込めてこの一語を捧ぐ。
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