2010年バンクーバー五輪フィギュアスケート女子。最大のライバルだった浅田真央を退け、歴代最高の総合得点で金メダルに輝いたのがキム・ヨナ(韓国)だ。来年に開催されるソチ五輪でも、金メダル候補に挙がっている。彼女が一躍世界のトップスケーターとして世界にその名が知られるようになったのは、2006年12月、ロシアで行なわれたグランプリファイナルだろう。ショートプログラムで3位だった彼女は、フリーで浅田、安藤美姫を逆転し、初優勝。バンクーバーの金メダル候補に躍り出たのだ。研磨職人・坂田清治がキム・ヨナに初めて会ったのは、その約1カ月前のことだった。彼女が坂田を訪ねて来日したのである。そのワケとは――。
 研磨技師としての信念

「この靴を見て欲しいんです!」
 坂田の腕を聞きつけてやってきた小柄な16歳の少女は、坂田の前に1足のスケート靴を差し出した。フリップがうまく跳べなくなってしまったのだという。靴を手に取って見ると、坂田はすぐにその原因がわかった。
「靴がねじれているからですよ。このねじれを直せば、フリップも跳べるようになりますよ」

 当然、キム・ヨナはねじれの修正を坂田に依頼した。だが、坂田は反対したという。1カ月後にグランプリファイナルが控えていたからだ。
「一流選手はほんのわずかな感覚の違いを嫌って、靴ヒモひとつでも替えたくないものなんです。それを一番大事な土台である靴の形を変えるというんですからね。さらに彼女はブレードまで研いでほしいと。僕は『やめた方がいい』と反対しましたよ」

 だが、キム・ヨナは「どうしてもやってほしい」の一点張り。全く後に引かない様子に、とうとう坂田は折れた。
「わかりました、やりましょう。ただし、責任は負いかねますよ」
 そう条件を出し、引き受けた。

 翌日、キム・ヨナは、坂田に直してもらった靴で早速、近くのリンクで滑りを確認したという。きっと、そこで彼女は坂田の技術の高さに感動したのだろう。その日からNHK杯のために長野入りしていた坂田をわざわざ訪ね、「とっても良かったです。今後もよろしくお願いします」とお礼を言ってから韓国へと帰って行ったのだ。

 1カ月後のグランプリファイナルで、キム・ヨナは見事金メダルに輝き、世界のトップスケーターの仲間入りを果たした。表彰台で彼女の右隣に立っていたのは、前年女王の浅田だった。その姿に坂田は少し複雑な思いを感じていた。

「実はキム・ヨナは私を訪ねてくる前に、何度かメールを送ってきているんです。しかし、私はインストラクターとしての仕事もやっていましたから、日本人選手のメンテナンスだけで手いっぱいでした。ですから、『申し訳ないが、とてもあなたの靴をメンテナンスする余裕はありません』と断っていました。しかし、それでも彼女は『どうしてもやってほしい』と日本にまで来たんです。日本人選手のライバルに手を貸すべきではない、という意見の人もいると思いますが、しかし私はプロです。プロである以上、私を頼ってきた選手には国籍関係なく、でき得ることをやってあげなけれいけない。もちろん、日本人選手には勝って欲しいと思いますよ。でも、やはりプロとしての信念は譲れません」

 アクシデントを救った研磨技術

 バンクーバー五輪の約2カ月前にはこんなこともあった。09年11月、国立代々木競技場第一体育館ではグランプリファイナルが開催されていた。この大会も専属スタッフとして会場にいた坂田は、3日目の朝、選手通路でキム・ヨナと遭遇した。前日のショートプログラムで彼女は2位につけていた。トップは安藤美姫だった。

「Just a moment!」
 目が合うなり、キム・ヨナは坂田を呼び止め、そしてこう言った。
「またフリップが跳べないんです。靴を見てください」
 坂田は正直「まずいことになったなぁ」と感じていた。本音では、ジュニア時代から知っている安藤に勝たせてあげたいという気持ちがあったからだ。しかし、プロとしての信念は揺るがなかった。

 見ると、ブレードが大きく削れていた。フリップ失敗の原因は明らかだった。だが、試合前の公式練習の30分前にブレードをいじることは、常識的には考えられないことだった。それまでの感覚がまったく変わってしまうからだ。それはあまりにもリスクが高い行為だった。だが、やはりキム・ヨナは引き下がらない。
「どうしても直して欲しい」
 そう懇願するキム・ヨナを無視するわけにはいかなかった。

 30分後、キム・ヨナは6分間の公式練習に入った。そこにはジャンプを次々と成功させ、自信に満ちた表情で滑っている彼女の姿があった。その日、キム・ヨナはフリーで安藤を逆転し、2年ぶり3度目の優勝を果たしたのである。そして、その2カ月後、彼女はバンクーバーの地で金メダリストとなった。スケーターにとって、靴がいかに重要か、そして坂田の仕事がいかに多くのスケーターたちを支え、よみがえらせてきたのか。こうしたエピソードからも、そのことが窺い知ることができる。

「スケート靴の状態が、選手のパフォーマンスに非常に大きな影響を及ぼすことは間違いありません。でも、もちろん絶え間ない努力をして、演技をしているのは選手自身。私の仕事は、それをほんの少しだけ支えているに過ぎません」
 そんな坂田の言葉からは謙虚さの中にも、研磨職人としてのプライドが確かにあった。

(おわり)

坂田清治(さかた・せいじ)
1947年10月6日、新潟県生まれ。新潟大学卒業後、品川プリンスホテルのアイスショーなどで活躍。大和証券に勤めた後、米国にコーチ留学をする。79年からはプリンスホテルの専属インストラクターとなる。98年長野五輪では強化コーチを務めた。代表取締役社長を務める衣装や靴などの輸入・販売店「株式会社ユニバーサルジャパントレーディング」で、フィギュアスケート靴のメンテナンスを行なっている。

(文・写真/斎藤寿子)
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