パワハラ問題の責任を問われて柔道女子日本代表監督を辞任した園田隆二は「自分の中で焦りもあり、急いで強化しないといけないという思いがあった」と行き過ぎた指導の背景に五輪での勝利至上主義があったことを認めた。
 これに対しては「五輪で勝利を目指すことがなぜいけないのか?」との反論がある。そもそも選手の信頼を損ねるような前近代的、非論理的手法が意識の高い国際強化選手相手に奏功するわけはないのだが、勝利を目指すこと自体が間違いではない。では「勝利主義」と「勝利至上主義」は、どう違うのか。

 講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は今から84年前の1929年、まさに今日の混乱を予見するような一文を残している。<競技運動の目的は単純で狭いが、柔道の目的は複雑で広い。言わば競技運動は柔道の目的とするところの一部を遂行せんとするに過ぎぬのである>(『柔道と競技運動』)。勝利はあくまでも柔道の一部であって全体ではないと喝破しているのだ。

 ここで目を私たちが生きる資本主義社会に転じれば「市場原理主義」と「市場主義」の違いについても同様のことがいえる。資金が資金を生むという社会システムを「資本主義」というなら、それが、どうにか確立したのは19世紀前半だと言われている。つまり英国で産業革命が完了した時点だ。

 それまでカネ儲けは諸悪の根源とされ、とりわけプロテスタンティズムは商業や商人を蔑視した。<富はそれ自体きわめて危険なもので、その誘惑は止むことがなく、その追求は神の国の大きな重要性に比べて無意味であるばかりか、道徳的にもいかがわしいことだ>(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバー著、岩波文庫)

 ところが市場が形成され、モノやサービスが流通することで市民社会が豊かになると、一転、プロテスタンティズムは、これを「隣人愛の実践」と称えるようになる。資本主義が市民権を得ていくひとつのプロセスと見れば興味深い。大胆に解釈すれば唯我独尊的で富の分配に不熱心な者が「市場原理主義者」で、公正な競争と分配を通じて常に他者の幸福や社会の発展を追求している者が「市場主義者」となるのだろう

 そして、これすなわち嘉納が唱えた「自他共栄」の理念と相似形ではないか。隣人愛の実践だ。密室での権力の横暴や品位なき振る舞いは柔の道から外れている。嘉納の教え、今いずこにありや。

<この原稿は13年2月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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