まさに“3度目の正直”だ。7日、JRAが新規騎手免許試験の合格者6人を発表し、大井競馬出身の戸崎圭太にも待ちに待った朗報が届いた。戸崎は2005年、11年度と受験して不合格となっており、3度目にしてようやく念願叶ったかたちだ。地方競馬出身のJRA騎手はこれで計10人目。G1レース22勝の実績を残し、先日引退を発表した安藤勝己、リーディング(年間最多勝)争い常連の岩田康誠、内田博幸らトップジョッキーも数多くいる。地方競馬の全国リーディングに4度も輝いた大井のスター騎手は、主戦を中央競馬に変えて、どんな手綱さばきを見せるのか。失敗から学び、成長してきた騎手としての半生を、3年前の原稿で振り返る。
<この原稿は2010年11月5日号の『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>

 東京のベイエリアの一角にある大井競馬場の売り物は闇に浮かび上がるイルミネーションである。ここでの競馬を「トゥインクルレース」と呼ぶようになって今年で25年だ。3月中旬から12月初旬にかけて幻想的な光が競馬場を包む。

 6月2日、東京ダービー。
 6月30日、帝王賞。
 7月14日、ジャパンダートダービー。

 大井開催の夏場のビッグレースを総ナメにし、イルミネーションの祝福をひとり占めしたのがこれから紹介する戸崎圭太という男だ。

「あの悔しいレースがあったからことでこの3連勝がある。今にして思えば、自分自身が大きくなれたレースでした」
 4月21日、3歳クラシック第1弾羽田盃。戸崎は中央競馬から南関東競馬に移籍していたマカニビスティーという快速馬に騎乗していた。
 前走を8馬身差で圧勝した実力馬を大井を知り尽くした男が操るとあって、単勝のオッズは一番人気の1.3倍を示した。
 馬券を100円分購入した場合、戻ってくる金額は130円。グリグリの大本命である。
 ところが、である。

「大失敗でした。相手に“勝ってください”というレースをしてしまった」
 手綱をひかなければならないところを、3コーナーから仕掛けてしまったのだ。これが原因でマカニビスティーは残り100メートルで脚が鈍り、シーズザゴールドという馬にゴール前で、ハナ差でかわされた。
 ハナ差というのは着差の中で最小の単位だ。騎手にとっては一番悔しい負け方である。
「一番強い馬でしたし、勝てる自信もありました。それが重圧となり、焦りが生まれてしまった。
 本来、我慢すべきところを我慢できなかった。自分でも情けないくらい落ち着きのないレースをしてしまった。慌ててしまったんです。してはいけないレースをしてしまった……」

 しばらくは眠れない日々が続いた。夜中にパッと目が覚めたり、うなされることもあった。
 その2カ月後、南関東3歳サラブレッド最強を決める東京ダービーに戸崎は再びマカニビスティーで臨んだ。

 ダービーは特別なレースである。
 競馬発祥の地・英国でダービーが産声をあげたのは1780年。この国では老中・田沼意次が傾きかけていた徳川幕府の財政を立て直していた頃である。
 日本における最初のダービーは1932年。東京の目黒競馬場で「東京優駿大競走」という名でスタートした。
 それに遅れること23年、南関東でもダービーが誕生した。「春の鞍」というレース名で創設され、64年には「東京都ダービー」と改称した。その2年後には「東京ダービー」となり、今日に至っている。

 この歴史あるレースで、戸崎は2勝をあげている。
 このタイトルだけは譲りたくない――。羽田盃での過ちを繰り返さないよう、戸崎は慎重にレースを進めた。
 最後の直線に入り、満を持して馬を大外に持ち出すと、弾けるように伸びた。
 ゴール50メートル手前で先頭の馬をとらえ、風のように抜き去った。終わってみれば2着馬に1馬身4分の1差の圧勝だった。
「あれがあの馬の本当の強さ。やっとそれが証明できた。馬の邪魔をしたくなかった」
 苦笑を浮かべて戸崎は言った。

 栃木県下都賀郡壬生町で生まれた。子供の頃から小柄だった。
 中学時代は野球部に所属したがレギュラーにはなれなかった。
「夢はプロ野球選手。強い高校に入って甲子園に出たかった」
そんな折、近所の知り合いから競馬学校への進学を薦められる。
「小柄だから野球よりも競馬の方が向いていると思われたようです」
 競馬については興味も関心もなかった。テレビで観たこともなかった。中央競馬と地方競馬の違いなど知る由もなかった。
 競馬学校は那須にあった。正式名称を地方競馬教養センターと言った。地方競馬の騎手養成所だ。
「2年間、実家には1度も戻らなかった。学校からも競馬場での実習と年に1度の旅行以外は出られない。太っちゃいけないのでご飯も腹いっぱい食べられないし、お菓子も制限されていた。騎手になるために通らなければいけない道だからと言って我慢しましたが、もう1回やれと言われれば嫌ですね(笑)」

 デビュー戦を勝利で飾り、順風満帆に見えた騎手生活に影がさしたのは1カ月後の98年5月のことだ。
 強引な競馬をして落馬。左上腕と顔面を骨折した。
 事故のことは全く覚えていない。目が覚めたら病院のベッドの上だった。
「初騎乗初勝利で、どこか競馬を甘く見ていたところがあったんだと思うんです。自分本位にどんどん狭いところに突っ込んでいった結果がこれ。要は自爆ですよ。でも自分の騎乗を見つめ直す意味ではいい経験だったかな。今にして思えば神様が与えてくれたケガだったんじゃないかと」

 ブレークしたのは2007年。現在は中央で活躍中の内田博幸に次ぐ212勝をあげ、南関東ランキングの2位につけた。
 勢いに乗る戸崎は翌年306勝をあげ、ついに全国リーディングに躍り出た。
 近年は中央への進出も積極的に行っている。
「(大井の)ダートでは強引に行けるのですが、(中央の)芝では馬への“当たり”を大事にしなければならない。だから直線まで我慢してきれいなレースをしています。
 一方、地方のレースではどっからでも突っ込んでくる。4コーナーまでじっとしているということが少ない。迫力があるという点では地方の方が上かもしれないですね」
 ダート日本一を決める東京大賞典は12月29日。30歳になった“砂上の王子”は暮れのビッグタイトルに照準を絞っている。
◎バックナンバーはこちらから