2013年1月13日、日本の学生スポーツ界に新たな歴史が刻まれた。第49回ラグビー全国大学選手権大会・決勝。帝京大学が筑波大学を39−22で破り、史上初の4連覇を達成したのだ。この快挙の裏には、さまざまなスタッフの献身的な支えがあった。岩出雅之監督が「同志」と呼ぶ彼(女)らの尽力なくして、4連覇はなかったと言っても過言ではない。今回はその一人、アスレティック・トレーナー大木学に、4連覇への軌跡を訊いた。
「ルーキーズ」――12年シーズンのチームを、岩出監督はそう表現した。前年の4年生には同志社大学以来となる3連覇を成し遂げた3シーズン(09〜11)、主力として活躍し続けた選手が多くいた。その4年生がごっそりと抜け、後に残ったのはキャプテンに就任した泉敬をはじめ、ほとんどが大学選手権未経験者だった。
「周囲は“3連覇したチーム”として見ていましたが、実際は一からのチームづくりだったんです」
 大木は当時をこう振り返った。
「オマエらはルーキーズだ。だからこそ、一番努力するチームになろう!」
 前人未到の偉業は、この指揮官の言葉からスタートした。

 経験値が少ない分をカバーしようと、ランニングやウエイトトレーニングなど、練習の量も質も前シーズンよりも上げた。当然、身体への負担は大きくなったはずである。だが、シーズンに入ってから練習や試合に参加できないほどのケガを負った選手はひとりも出なかった。おかげで1ピースも欠けることなく、ベストの状態で試合に臨むことができた。それがチームの実力を遺憾なく発揮した要因のひとつとなったことは言うまでもない。

 では、激しいコンタクトプレーの多い競技であるにもかかわらず、大きなケガに見舞われずに済んだ要因はどこにあったのか。大木の口から飛び出したのは“超回復”という言葉だった。
「トレーニングで身体に負荷がかかると、筋繊維が破壊され、一時的に体力が落ちます。そのまま十分にリカバリーをせず、身体が回復しようとしている時に再び刺激を加えると、さらに体力が落ちてしまいます。これを繰り返すと、疲労が蓄積し、身体への負担が大きくなるんです。これが練習への意欲や集中力の低下といったメンタル面にも影響を及ぼし、ケガを起こしやすくする要因となります。つまり、強化しようとして行なっているはずのトレーニングが逆効果となるわけです。そこで重要なのが、回復力を生み出すトレーニング後のケアや食事、睡眠です。これらをしっかりととることによって、フレッシュな状態で次の練習に臨むことができます。そして、身体を元通りの状態にするだけでなく、回復レベルを上げ、前日、1週間前、1カ月前よりも強い身体をつくろうというのが“超回復”。疲労を残さず、より元気になって、グラウンドに戻ってこようというわけです」

 帝京大学ラグビー部が“超回復”をテーマのひとつにしている根底には、「選手の安全が第一」という岩出監督の思いがある。激しいコンタクトプレーが多いラグビーでは、ひとつの判断ミスが命取りになる。常にその危険性と隣り合わせにあるのだ。だからこそ、重要なのが “予防”だ。「いかに未然にケガを防ぐことができるか」。その第一歩が“超回復”というわけだ。そして、“超回復”への先導役が大木をはじめとしたアスレティック・トレーナーを含むメディカルチームのスタッフだ。「“事が起こってからでは、どうしようもない”事を多く見てきたアスレティック・トレーナーだからこその役割」。大木はそう感じている。

 “再生工場”からの転換

 昨年、大木は一念発起し、40歳にして国士舘大学体育学部スポーツ医科学科に編入した。目的は救命救急士の資格取得だ。そこには岩出監督のもと、10年以上の歳月を過ごした中で沸き起こった“安全”に対する並々ならぬ強い思いがあった。

「帝京の強さは、選手を大事にすることにこそあると思っています。グラウンドで見せるパフォーマンスもメンタルの強さも、すべてそこから生み出されたものです。そうしたチームづくりに、より貢献したいと思い、救急救命士の資格を取ろうと思いました。“事が起こってから始まる”のが救急救命士の主な仕事ですが、その知識は“予防”に深くつながっているんです」

 今では一番に予防を考え、それが自らに課された最も重要な仕事だと信じている大木だが、以前は自分の仕事は“再生工場”だと考えていたという。
「ひと昔前の帝京はケガが本当に多いチームでした。02年にチームのトレーナーに就いた当初は、それこそ3分の1もの選手がケガで練習に参加していない状態だったんです。チームには“コンタクトスポーツなんだから、ケガをするのは普通”というような雰囲気がありましたし、私自身もそう思っていた部分がありました。だから予防への意識が乏しく、試合や練習に対する準備ができていない状態のままプレーをしてケガをすることが多かった。そうした選手をいかに早くグラウンドに戻すか、それが私の役割だと考えていました。でも、またすぐにケガをして戻ってきてしまうんです。今考えると、指導不足で選手にもチームにも本当に申し訳ないことをしたなと思います」

 転機が訪れたのは、06年シーズンの大学選手権だった。その年、帝京大は1回戦で京都産業大学に敗れた。最大の敗因は“ケガ”だった。レギュラーの約半数がケガで欠場したのだ。
「特に経験が重要なポジションであるバックス(BK)の選手たちに故障者が相次ぎ、自分たちのパフォーマンスを発揮することができなかった。ケガの怖さを痛感させられたシーズンでした」
 岩出監督は当時をこう振り返った。

 大木もまた、“アスレティック・トレーナー”という役割について思いをめぐらせていた。
「ケガが原因でベストパフォーマンスがグラウンドで出せないことが、どんなに悔しいことか……。06年シーズンの京産大戦は、そのことを一番感じさせられた試合でした。当時、私は練習をやった分だけ、それがそのまま試合に出ると信じていました。だから選手にも『きつくても頑張れ』というスタンスで指導していました。でも、その試合で『いや、違うな』と、はっきりと気づいたんです」

 徹底させた“当たり前”

 この気づきには伏線があった。前年の05年シーズンの大学選手権、帝京大は初戦で東海大学に62−0と圧勝した。スコアだけを見れば、完璧な勝利である。だが、実はその試合で主力選手が一気に3人もケガをするというアクシデントが起こっていた。最も重傷な選手は、腓骨筋腱を脱臼していた。とてもテーピングでごまかせるようなものではなかったという。結局、3選手は次の試合は欠場を余儀なくされ、帝京大は2回戦敗退を喫した。

「年々、選手たちのラグビーへの意欲や意識が強くなっていくとともに、練習の内容もレベルアップしていきました。でも、その半面、ケガ人も多く出るようになっていたんです。そのピークが05、06年シーズンだったと思います」

 2シーズン連続でケガに泣いたチームに対し、大木は責任を感じるとともに、自らの変化の必要性を強く感じていた。「ケガをした後の対応」ではなく、「ケガをする前の予防」に、より意識をもち始めたのはそれからだった。そして、チームもまた“超回復”をキーワードに、予防に注力していくようになった。

 現在では、監督、コーチ、スタッフがそれぞれの知識と情報を持ち合わせ、ケガを未然に防ぎ、グラウンドでベストパフォーマンスを出すための、さまざまな取り組みが行なわれている。練習後のストレッチもそのひとつだ。今やストレッチはスポーツ選手の“常識”だが、つい流してしまうケースは少なくない。そこで大木は、各自に任せていたストレッチを、全員で行なうことにした。
(写真:練習直後、全員でストレッチを行なうことで“超回復”につなげている)

「練習後、30分以内に栄養補給するのと同じで、緊張状態にある筋肉に早く“休みなさい”という指令を与えることが大事なんです。練習直後にストレッチや交代浴をするかしないかでは、疲労の残り具合はまるで違います。でも、集団生活の中では1人でも希薄な選手がいると、それに影響される選手も出てくる。全員に徹底させようということで、練習の最後にストレッチのメニューを加えてもらいました」

 一見、拍子抜けしてしまうほど、当然のことを行なっているに過ぎない。だが、当たり前のことを徹底させることほど意外に難しいものである。140人という大所帯ならなおさらだ。帝京大はこうした細かな取り組みをしっかりと真剣に行なっている。前人未到の4連覇という栄光は、いくつもの小さな積み重ねの結晶にほかならない。

(後編につづく)

大木学(おおき・まなぶ)
1972年生まれ。有限会社トライ・ワークス所属。96年、早稲田大学人間科学学部スポーツ科学科卒業。2000年、Western Michigan University修士課程修了。米国のスポーツクリニックや高校でのトレーナー、いすゞ自動車ギガキャッツ・バスケットボール部アシスタント・トレーナーを経て、02年より帝京大学ラグビー部ヘッドアスレティック・トレーナーを務める。同部の4連覇に大きく貢献した。

(文・写真/斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから