高校2年時にはインターハイ、国民体育大会、ウインターカップの三冠を達成。翌年には17歳で日本代表入りし、ロンドン五輪アジア最終予選に出場。同年、ウインターカップで連覇達成――長岡萌映子は、これまで数々の栄光を手にしてきた。将来は日本の女子バスケットボール界を背負って立つ存在として、大きな期待が寄せられている。実業団1年目の昨シーズン、彼女は全試合に出場し、チーム一のポイントゲッターとして活躍した。全チームのヘッドコーチおよび報道関係者からの投票で決まる「ルーキー・オブ・ザ・イヤー」にも輝いた。しかし、彼女にとっては決して満足のいくシーズンではなかった。高校時代とは違う、実業団の厳しさを痛感した1年だった。
「高校時代、代表でWJBLの選手とやっていたので、レベルの高さはわかっていました。それは予想通りという感じで、特に驚きはなかったんです。一番苦戦したのは、高校までとは違って、同じチームと何度も対戦すること。段々と相手にプレーが読まれて、ポイントゲッターである自分へのマークが厳しくなっていくのを感じました」

 味方からのパスを受け、長岡がボールをもつと、すぐさまマークがついた。もちろん、それは長岡にも予想できていたことだ。だが、終盤になると、その人数は2人、3人と増えていった。高校時代なら2人でも3人でも、まったく気にはならなかった。181センチという長身の長岡にとって、ディフェンスの壁を越えることはそう難しいことではなかったのだ。しかし、実業団ではそうはいかなかった。180センチを超える選手はそれほど珍しくなく、そのうえパワーもスピードも高校時代とは比べものにならなかった。

 それでも、得点ランキングは堂々の6位。1試合平均15.41はチームトップの数字である。さらにリバウンド、ブロックショットの部門でもベスト10入りを果たしている。彼女自身「得点とオフェンスリバウンドに関しては、通用したかなとは思います」と、ある程度納得している。それでも「得点は平均20点はいきたかったし、リバウンドも5番目には入りたかったですね」と向上心は尽きない。

 そんな長岡には理想の選手像がある。それはここ一番という時に勝負強さを発揮できるプレーヤーだ。そのイメージがピタリと当てはまるのが、矢野良子(トヨタ自動車アンテロープス)だという。矢野は、2004年アテネ五輪に出場するなど、日本女子バスケ界を牽引してきた34歳ベテランプレーヤーだ。現在も第一線で活躍し、今年1月に行なわれた全日本総合バスケットボール選手権大会(皇后杯)での初優勝に大きく貢献。大会ベスト5にも選ばれている。トヨタ戦で、その矢野とマッチアップする度に、長岡は矢野の勝負強さを痛感したという。

「矢野さんは、こちらが決めて欲しくないと思う時に必ず決めてくるんです。でも、自分はそういう時に1本取り返すことができない。その度に、自分の力不足を感じました。そういうことを感じさせてくれる矢野さんとのマッチアップは、自分にとってはとても貴重だと思っています」

 衝撃を受けた韓国戦

 長岡の名は、中学時代から日本のバスケットボール界では知られ、将来を嘱望される存在として注目されていた。そして、さらに全国にその名を轟かせたのは、2011年、ロンドン五輪アジア地区予選を兼ねて行なわれたアジア女子バスケットボール選手権だった。当時、高校3年の長岡が、WJBLで活躍する先輩たちを押しのけ、代表12名に入ったのだ。高校生での代表入りは、2歳上の渡嘉敷来夢(JXサンフラワーズ)以来。日本女子が2大会ぶりに五輪出場なるかという重要な大会に、17歳の長岡が代表の一員として選ばれたのだ。しかし、結果は3位。この大会でのロンドンの切符は、優勝した中国へと渡った。

 この大会で中国の強さは際立っていた。だが、長岡の脳裏に最も深く刻み込まれたのは、韓国だった。韓国とはアンダーの大会で何度か対戦したことがあるが、負けたことがなかった。ところが、この大会で日本は韓国に59−66で敗れた。そして決勝進出を果たした韓国は、中国に敗れはしたものの、その差はわずか3点という大接戦を演じたのだ。

「韓国には本当に驚きました。アンダーからフルに上がると、こんなにも変わるんだと。日本と韓国との立場が真逆になっていたんです。スピードなら日本は韓国に負けてはいません。でも、ひとつひとつのプレーの緻密さやフィジカルの強さという点で韓国のすごさに圧倒されてしまいました。センターはもちろん、ガードやフォワードの選手も、ドライブでインサイドに切り込んでいっても、ディフェンスに飛ばされずに、フィニッシュまでいけるんです。

 それと、味方がスクリーンをかけている間に、アウトサイドでボールをもらってフリーでシュートを打つというフレアというプレーを韓国は得意としているのですが、そのスクリーンのかけ方がすごくうまい。自分たちも必死にフェイクしたりしてかわそうとしたのですが、そこにバッチリいるんです。チームプレーの緻密さにも驚きました」
 日本が五輪の舞台に立つには、この韓国、そして中国は必ず倒さなければならない相手だ。次のリオデジャネイロ五輪でも予選で激突することは容易に想像できる。だからこそ、日本は成長が不可欠だ。その一翼を担うのが、長岡であることは間違いない。

 わからなかったバスケの魅力

 現在はバスケットを仕事にし、バスケット人生まっしぐらの長岡だが、実は始めた当初はバスケットがあまり好きにはなれなかったという。彼女がバスケットを始めたのは小学2年の時。2歳上の姉が小学校のミニバスケットチームに入っており、人数不足ということもあって、長岡に声がかかったのだ。3年になると、本格的にチームの練習に参加するようになった。だが、長岡にはバスケットの面白さが感じられなかったという。1年間やってみたが、やはり好きにはなれなかった。4年になった長岡は、チームを辞め、バスケットから離れていった。

 しかし、身体を動かすことが好きだった長岡は、何かスポーツをやりたいと思っていた。そこで、両親がバレーボール選手だったこともあり、バレーをやってみた。だが、長くは続かなかった。次にスイミングスクールに行ってみた。そこでも、長岡の興味は沸かなかった。その後もいろいろと試してはみたものの、どれもしっくりこない。

 その間、ミニバスのコーチには「また、バスケをやらないか」と誘われ続けていたこともあり、5年になると再びミニバスのチームに戻った。
「戻ったとはいっても、『やっぱりバスケットがやりたい!』と思っていたわけではなかったんです。『まぁ、やるんだったらバスケットかな』くらいで、本当に漠然とやっていました」

 そんな長岡の気持ちとは裏腹に、周囲は長身で運動能力の高い彼女に大きな期待を寄せていくようになる。中学に入ると、地元の市や北海道代表にも選出され、将来を嘱望される存在へとなっていった。長岡自身も少しずつバスケットを楽しいと感じるようにはなっていた。だが、本人に言わせれば、それは「ただ楽しい、勝ちたいと思っていただけだった」という。長岡がバスケットの真の楽しさを感じるようになったのは、高校に入ってからだった。そこには、あるコーチとの出会いがあった――。

(後編につづく)

長岡萌映子(ながおか・もえこ)
1993年12月29日、北海道出身。小学2年からバスケットボールを始め、札幌山の手高校では、2年時にインターハイ、国民体育大会、ウィンターカップの3冠を達成した。3年時にはキャプテンとしてチームを牽引し、ウインターカップ連覇に導いた。日本代表としても活躍し、高校1年時にはアジアU−16女子選手権準優勝に大きく貢献。2年時にU−17世界選手権で5位となる。3年時には、ロンドン五輪予選を兼ねたアジア選手権に出場した。昨年、富士通レッドウェーブに入団。1年目からレギュラーとして活躍し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。181センチの長身オールラウンダー。

(文・写真/斎藤寿子)
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