今夏の甲子園、松井裕樹(神奈川・桐光学園)という2年生サウスポーが華々しい奪三振ショーを演じた。4試合で、取りも取ったり68奪三振。大会史上3位にランクインした。ちなみに1位は現在、タレントとして活躍している板東英二の83個だ。徳島商のエースとして昭和33年に、この大記録をつくった。板東擁する徳島商は決勝にまで進出したが、山口の柳井高に0対7で敗れた。
 春夏合わせて42回の甲子園出場を誇り、センバツでは頂点に立ったこともある名門・徳島商は昭和17年夏の甲子園でも優勝を果たしているが、深紅の大旗を母校に持ち帰ることはできなかった。高校野球の正史にも同校の優勝は記載されていない。なぜなら<戦前からの中等野球、戦後の高校野球という長い歴史の中で、この昭和十七年の大会だけが「国」による主催>だったからである。より詳しく書けば大阪朝日新聞社(当時)ではなく、文部省とその外郭団体である大日本学徒体育振興会の主催だったのだ。

 昭和17年と言えば4月にB25爆撃機が本土空襲を始め、6月にはミッドウェー海戦にて日本海軍が大敗を喫している。「全国中等学校優勝野球大会」は昭和16年から開催されておらず、大会の再開は困難であると思われた。

 ところが国は中等野球を「戦意高揚」に利用する。甲子園球場のスコアボードには「勝って兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう大東亜戦」なるスローガンが掲げられた。

 この大会には特別ルールも登場した。打者は投手の投球をよけてはならないのだ。それは「突撃精神に反するもの」だったからである。また選手交代も原則禁止の方針が打ち出された。「選手は最後まで死力を尽くして戦え」。それがお上からのメッセージだったのだ。

 それでなくても野球は米国生まれの「敵性スポーツ」である。「この戦時下に野球などしやがって」という世間の冷たい視線に耐えながら、それでも懸命に白球を追い続けた球児たちの姿に、戦時下の人々はどんな想いを抱いたのだろう。

 この大会には徳島商を始め16校が出場した。著者は全15試合の全てを克明に再現し、徳島商優勝までの軌跡を丹念に描く。タイトルこそ「幻の甲子園」だが、グラウンド上の戦いは実在した。とりわけ徳島商対平安の決勝戦のドラマには心を打たれた。なんと押し出し四球による決着だったのだ。「最後の一球」を投じたエースはマウンドに崩れ落ちたまま、しばらく立ち上がれなかったという。

 戦争とスポーツ。重いテーマに挑んだ作品はたくさんあるが、本書(文春文庫)も傑作のひとつに数えられよう。私情を排した淡々とした筆致が作品に硬派な風味を添えている。夏が過ぎるまでに読んでおきたい。
「幻の甲子園」 ( 早坂隆著・文春文庫)

<上記は2012年8月29日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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