浦野博司が野球を始めたのは小学3年の時。地元のスポーツ少年団に入った。きっかけは偶然が重なったものだった。浦野には2歳上の兄がいる。その兄に浦野はいつもライバル心を燃やしていた。サッカーチームに入っていた兄は、弟から見ても巧かった。「サッカーでは勝てない」。幼心にそう悟った浦野は、兄とは違うスポーツをやろうと思った。そこで祖父が勧めた陸上への道を考えていたという。一方、父親は息子に野球チームに入るよう促していた。
「博司が小学1年の時、野球チームが県大会まで進んだんです。初戦で負けたのですが、地元は盛り上がりましてね。それでお酒の席で監督やコーチの前でつい『うちの博司は野球をやらせますよ』と言ってしまったんです。帰宅してから『困ったことになったなぁ』と思ったのですが、それでも博司に『オマエ、3年になったら野球やれよ』と言ったんです。そしたら『うん、わかった』と。まぁ、半ば強制的にやらせたようなもんですね(笑)」

 当の本人はというと、父親に“やらされた”という印象はない。
「僕は3年になったら、おじいちゃんが好きな陸上をやろうかなと思っていたんです。でも、ある日友だちの家に遊びに行った時、近くのグラウンドで野球チームが練習しているのを見たんです。その時は『野球チームがあるんだ』くらいにしか思っていなかったのですが、気付いたらチームに入っていました」

 実際に始めると、浦野はすぐに野球に夢中になった。「楽しくて楽しくて仕方なかった」という。そして、5年になると肩の強さを買われ、ピッチャーをやるようになった。
「ピッチャーは好きでしたね。ピッチャーである自分が投げないと試合は始まらないわけですし、試合をつくることができる。一番注目されるポジションですし、何よりもバッターを抑えると気持ちがいいですから」

 中学校で軟式野球部に所属した浦野は、高校は浜松工業に進学した。自宅のある袋井市から浜松工までは車でも1時間はかかる。朝練に間に合わせるためには、地元の駅からでは間に合わず、母親が軽トラックに自転車を乗せ、浜松駅まで送って行った。そこから浦野は自転車で約30分かけて通学した。「決して簡単にできることではないですよ」と、栗林俊輔監督(現・静岡高)は語る。
「毎日、全体練習の後に自主練習もしていましたから、帰宅するのは相当遅かったはずです。それでも一度も彼は弱音を吐いたことはなかったですし、勉強の面でも特に迷惑をかけるようなことはまったくありませんでした」

 その栗林監督が3年間で最も成長を感じたのは、2年春だったという。
「実は入学当初、同じ学年には浦野の他にもう一人ピッチャーがいたんです。彼は結構いいボールを放っていたんですよ。一方の浦野は華奢な身体で力強さがなかった。もうひとりのピッチャーと比べても、あまりボールに勢いは感じられなかったんです。ところが、ひと冬越えた2年の春からメキメキと伸びていきましたよ。あっという間に同学年の子との差は広がっていきました。それどころか、1つ上のピッチャーまで抜いてしまって、浦野がエースになったんです」

 当時から自分のリリースポイントを持っていた浦野は、キレやコントロールが良く、大きく崩れることはほとんどなかった。最終学年となった2年秋以降、「浦野の調子が悪くて困ったな、と思ったことは一度もない」と栗林監督が語るほど、指揮官からは全幅の信頼を寄せられていた。

 父を驚かせた本気度

 浦野は高校時代、結局一度も甲子園に出場することはかなわなかった。密かにプロを夢見ていたが、「甲子園にも出られないようでは無理」と志望届は出さなかった。しかし、もっとレベルの高いところで野球をやりたい、という気持ちは変わらなかった。県内ではトップクラスの好投手として注目されていた浦野に声をかけたのは、東都大学野球リーグに所属する大学と、愛知学院大学だった。

 関東で野球をしたいという気持ちがあった浦野は当初、東都の大学に魅かれていた。だが、栗林監督の次の言葉に、浦野の考えは一変した。
「大所帯の東都の大学では、試合に出ることも難しい。もちろん、そうした厳しい環境でもまれるのもひとつだと思う。だが、4年間一度も試合に出場できないかもしれない。一方、愛知学院はわざわざ監督自らが出向いてくれている。それほどオマエを主戦として期待しているのだろう。そこでエースとなって全国の舞台に立ち、アピールするという考えもある」
 最後に浦野が選んだのは、愛知学院だった。まずは試合に出場して、全国に自分の名前を売ることが重要だと考えたのだ。

 しかし大学時代、浦野は自らが納得するような成績を収めることはできなかった。一時はプロを諦めようとしたこともあったが、セガサミーから声がかかり、社会人での挑戦を決心した。その決心に、父・可成(かなる)は驚きを隠せなかったという。
「普通は高校で野球を辞める子もたくさんいるわけでしょう。そんな中で博司は、大学だけでなく、社会人にまで行ってやりたいと言ってきた。それで『なんで、オマエはそこまでしてやろうとするんだ?』と聞いたんです。そしたら『今まで野球をやってきて、小学、中学、高校、大学で、それぞれ野球を諦めたヤツらがいる。そいつらの気持ちも、オレは背負っているから』と言ったんですよ。その時、本気なんだなと思いましたね。『そこまで言うんだったら、納得するまでやってみろ』と言いました」

 そして、こう続けた。
「ただ、ひとつだけ約束させたんです。私はね、海援隊のファンなんですよ。特に『母に捧げるバラード』が大好きでしてね。その歌にこんな語りがあるでしょう。<休みたいとか遊びたいとか そんな事おまえいっぺんでも思うてみろ>って。博司にも言ったんです。『ケガしてすぐに痛いから休みたいとか、遊びたいとか、そうなったら終わりだぞ』と。博司は『わかった』と言ってました」

 浦野は一見、身体の線が細く、他の選手と比べても華奢に見えるが、身体の芯は強い。その証拠に、これまで野球を始めてから一度も大きなケガをしたことはない。それは、父親の「故障しないのも練習のうち。故障しないような練習をしなさい」という教えを守ってきたからに他ならない。

 “嫌いな色”にあえて挑戦

 プロ解禁となる今年にかける浦野の思いの強さは、グラブにも表れている。これまで黒っぽい色を選んでいた浦野だったが、新調したグラブの色は明るい朱色だった。実はあえて「嫌いな色」にしたのだという。その理由は何なのか。
「マウンド上ではいつも冷静でいたいので、グラブも落ち着いた色を選んでいたんです。でも、ふと思ったんです。『あえて嫌いな色にしてみようかな』って。言葉ではうまく言い表すことができないのですが、今年は勝負の年だと考えていたので、あえて嫌いな色にぶつかって自分を引き締めるというか……」

 今年2月、届いたグラブを見て、浦野は「うわぁ、すごいな。どうしよう……」と一瞬躊躇した。「勇気を振り絞って」練習で使うと、周囲からは「似合わない」の大合唱だったという。だが、それも時間の問題だった。使い続けていくうちに、誰も気にしなくなっていった。浦野自身も今ではもう慣れたという。

 浦野が今年、グラブを明るい色にしたのは、自信の表れでもあるのだろう。志望届を出さなかった2年前にはほどとんどなかった自信が、今の浦野には確かにある。それは1年目から主戦としてチームに貢献し、都市対抗野球大会本戦でも白星を挙げたことにある。そして今年、さらにその自信を助長させたのは、都市対抗野球大会東京第二次予選、準決勝のJR東日本戦だった。この試合、先発した浦野は相手打線をわずか3安打に抑え、完封勝ちを収めた。

「2年目は相手に研究されてくるだろうなと予想していました。だから、そんなに簡単に結果は出ないだろうと。でも、それではチームを勝たせることはできないし、自分もプロに行くことができない。だから、オフはこれまで以上に気合いを入れてトレーニングしたんです。でも、予選前までずっと調子が悪くて、そんな中での試合で、1−0で完封することができた。チームが勢いに乗るには、この試合はキーポイントになるとも思っていたので、自信になりましたね」

 セガサミー入社以降、浦野が自信を膨らませていることは、栗林監督も感じ取っている。「浦野とは今も時々連絡を取っているのですが、何気ない会話の中で、自信をつけていることはわかりますね。それに高校の同窓会で締めの挨拶の際、浦野はみんなの前でこう言ったんです。『プロに行って、みんなを試合に招待できるように頑張ります』って」

 そして、こう続けた。
「彼にはアスリートとしての素質が備わっていると思います。まずは試合に臨む前の準備がしっかりとできる。自分が成長するために、勝つために、努力を惜しまない。そして、いざ勝負の場では実力を発揮することができる。しかも、ここ一番という時ほど、アイツはスイッチが入ってベストボールを投げるんです。プロに入っても、彼はきっと成功するタイプですよ。目上の人から目をかけてもらえるような取り組みをするでしょうし、チームメイトからも信頼される言動をとるでしょうからね。だからチャンスをもらえる選手だと思うんです。そこから先は、自分自身を見失わずに勝負していけば、活躍できるだけのものは持っていますから」

 今年の都市対抗は、初戦で新日鐵住金かずさマジック戦に0−2で敗れ、前年に続く2回戦進出はならなかった。先発した浦野は6回2/3を投げて8安打2失点。打線の援護がなかったと言えばそれまでだが、浦野にとっても決して快投とはいかなかったのではないか。中盤は明らかにボールが高く、苦しいピッチングを余儀なくされた。

 だが、それでもマウンド上の浦野の表情はほとんど変わらなかった。それはいつもの浦野だったが、意外にも人一倍頭に血がのぼってしまうタイプだという。そのために意識的に冷静を装うことを心掛けているのだ。きっかけは高校時代に遡る。
「ある試合で、調子が悪くてメチャクチャ打たれたことがあったんです。それで僕はひとりでカリカリして、マウンドに来てくれたキャッチャーにもツンツンしていた。結局、その試合は勝ったんですけど、試合後に監督に呼ばれて『野手はみんな後ろからオマエのことを見ているんだぞ。ピッチャーのオマエがああいう態度をとるんじゃない』と叱られました。それからですね、気持ちを出さないように心がけ始めたのは。今ではあまりにも無表情なのでチームメイトから『オマエ、怒ってるの?』なんて言われますけど(笑)」

 今年のプロ野球ドラフト会議、社会人では昨年の都市対抗で若獅子賞(新人賞)を同時受賞した吉田一将(JR東日本)と吉原正平(日本生命)に、浦野を加えた3人が“89年トリオ”と呼ばれ、注目されている。いずれも上位候補に挙がっており、単独1位指名の可能性も十分にある。高校時代、「雲の上」だと思っていたプロの世界は、もうすぐそこまで来ている。

(おわり)

浦野博司(うらの・ひろし)
1989年7月22日、静岡県出身。小学3年から笠原スポーツ少年団で野球を始め、5年から投手となる。浜松工高卒業後、愛知学院大に進学し、1年春からリーグ戦に出場。3年春から主戦投手となり、4季連続優勝に貢献した。リーグ戦通算成績は24勝。3年春、4年春にはMVP、ベストナインに輝く。4年の全日本大学野球選手権大会ではベスト4、明治神宮大会では準優勝。12年にセガサミーに入社し、先発の柱として活躍。昨年の都市対抗野球大会では初戦の日本通運戦に先発し、6回1/3を4安打1失点の好投で、チーム3年ぶりとなる本戦勝利に貢献した。今年は第2代表決定戦でJR東日本を1失点完投し、2年連続での本戦出場にチームを導いている。178センチ、70キロ。右投右打。


☆プレゼント☆
浦野選手の直筆サインボールをプレゼント致します。ご希望の方はより、本文の最初に「浦野博司選手のサインボール希望」と明記の上、住所、氏名、年齢、連絡先(電話番号)、この記事や当サイトへの感想などがあれば、お書き添えの上、送信してください。応募者多数の場合は抽選とし、当選は発表をもってかえさせていただきます。締め切りは7月31日(水)迄です。たくさんのご応募お待ちしております。

(文/斎藤寿子)
◎バックナンバーはこちらから