1968年のメキシコシティ五輪、男子スプリント200メートルで優勝した米人アスリートのトミー・スミスが表彰台で、黒い手袋をつけた片手を高々と突き上げた。3位の同僚、ジョン・カルロスも同じ姿勢。2人はシューズを脱ぎ、黒いソックス姿でメダルを受け取った。米国内の黒人差別に抗議し、ブラックパワーを誇示する政治的パフォーマンスだった。
 2人に対する評価は賛否両論あるだろう。五輪に限らず、あらゆるスポーツ大会に競技と無関係の政治が入り込むべきではないし、選手の個人的な思想信条をアピールする場にしてはならない、という基本原則も分からないではない。

 だからと言って、アスリートは政治的パフォーマンスを一切してはならず、ひたすら競技のことだけを考えていればいいというものでもあるまい。そんな根源的な命題が、今、世界中のトップアスリートに突きつけられている。

「オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立てることにある。その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある」(五輪憲章・根本原則第2項)

 この理念に著しく反する事態が今年3月に表面化した。中国チベット自治区ラサで起きた大規模騒乱をめぐり、チベット人僧侶や活動家らが弾圧されている現状が、次々に明らかになったのだ。チベット亡命政府や亡命組織によると、ラサの騒乱は中国四川省や青海省、甘粛省のチベット人居住区にも飛び火し、4月18日現在で抗議デモ参加者ら150人以上が死亡、500人以上が負傷、1400人以上が当局に拘束されたという。死者20人とする中国政府の発表とは大きく異なるため真相は不明だが、中国政府の対応がチベット人の「尊厳保持に重きを置く」ものではなかったし、「平和な社会を推進する」ものでもなかったことは疑いようがない。

 さて、改めて問おう。五輪憲章に明らかに反する行為を開催国が行ってもなお、アスリートは政治的パフォーマンスを封印すべきなのか。そしてスポーツに政治を持ち込むべきではないと、傍観するだけで良いのか。

 結論から先に言えば、私の意見は否である。北京五輪の参加者が何事もなかったかのように振る舞えば、チベット弾圧による人権侵害を黙認することになる。それこそ、五輪憲章への背反といえよう。憲章には、こうも書かれている。

「オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化や教育と融合させるオリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などに基づいた生き方の創造である」(根本原則第1項)

 右に書かれた「総体としての人間」及び「生き方の創造」が、人権侵害の現状を見過ごして良いはずがない。問題は、いかに効果的に抗議の姿勢を示すかにかかっている。

 中国が恐れるのは、国運をかけて行う開会式にケチがつくことだ。ならば、そこを狙いたい。開会式での模様は世界中に流れる。それを利用しない手はあるまい。

 ラサの騒乱から半月後、フランスのサルコジ大統領が「(抗議を示す)あらゆる選択肢が開かれている」と述べ、開会式ボイコットの可能性を示唆したことが、各国メディアの注目を集めた。国家元首がここまで踏み込んだ発言をしたのは初めてだったからだ。サルコジ自身は今も態度を留保しているが、その後、欧州を中心に元首クラスの開会式ボイコット表明が続出。4月18日現在でポーランド、チェコ、スロバキア、エストニア、ドイツ、ブラジル、イギリスの大統領や首相が不参加を決めた。

 私は、この開会式ボイコットという提案を、非常に味のある?くせ玉?だと評価している。中国政府が北京五輪を国威発揚の場と捉えているのは明らかだが、この“くせ球”を打ちこなせるだけの技量は中国政府にはない。壮大なマスゲームが繰り広げられる開会式は国威発揚の最大の見せ場であり、各国元首をメイン会場に集めて胡錦濤国家主席の周りに座らせるのが、中国政府の狙いだからだ。

 もしも各国元首が開会式に出席して賞賛の拍手を送れば、その映像は世界中で繰り返し放映され、チベット騒乱を隠蔽する格好の材料となる。逆に、ひな壇に胡主席ら共産党幹部の姿しかなかったら、抗議の意思は浮き彫りになる。

 だが、それだけでは十分とは言えない。人権無視のチベット弾圧を許さないとするメッセージを明確に伝えたいなら、主役であるアスリート自身の意思表示が不可欠だ。

 気になるのはIOCの動きだが、今のところボイコット気運の火消しに躍起だ。各国メディアに対しシュミット副会長は「五輪選手にとって開会式はとても大切であり、ボイコットや抗議行動は認められない」と牽制。4月7日に北京で開幕した各国オリンピック委員会連合総会も、全ての加盟国・地域が北京五輪に参加して大会に貢献することを求める声明を満場一致で承認した。

「オリンピックに政治を持ち込むべきではない」とするIOCの主張は、確かに理想ではある。だが実際には、オリンピックに政治が持ち込まれなかった大会は数えるほどだと言っていい。オリンピックは元来、都市が開催するものだが、現状は国家プロジェクトに基づく誘致合戦が繰り広げられ、国威発揚の場として政治利用される。

 周知の通り1980年モスクワ五輪では、前年に起きたソ連のアフガン侵攻に抗議し、カーター米大統領(当時)の呼びかけで日本、韓国、西ドイツなど約50カ国が不参加を決定。フランス、イタリアなど7カ国が開会式の入場行進をボイコットした。問題の中国でさえ、この時は参加をボイコットしている。

 その報復として4年後のロサンゼルス五輪では、ソ連、東ドイツなど16カ国が不参加を決めた。

 こうしてみると、チベット弾圧のような重大な人権侵害を起こしてもなおボイコットの動きが見られないとしたら、その方がよっぽど異例であり、不自然といえるだろう。

 例外は、1936年ベルリン五輪である。当時はナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策が各国から厳しく批判され、ボイコットを模索する声も一部にあった。しかし、期間中はヒトラーが人種差別発言を抑制するなど隠蔽に努めたり、欧米各国の微妙な政治的思惑もあったりで、ナチスの威信をかけた五輪は予定通り開催された。

 実は、ベルリン五輪と北京五輪とは、不思議と一致する点が多い。

 一方はヒトラー独裁、一方は共産党一党独裁だ。ユダヤ人迫害とチベット人弾圧と、いずれも看過できない人権問題を抱えている。聖火リレーがかつてないほど注目されたのも両大会の特色。最近の熾烈な抗議活動については後述するが、各国を回る聖火リレーが最初に行われたのはベルリン五輪であり、当時の話題をさらった。

 そして、国威発揚に奔走するナチスの秘められた野望を見抜けず、ボイコットなど明確な意思表示をしなかった各国は、3年後の1939年、ヒトラーによるポーランド侵攻と、その後に続く第二次世界大戦の惨禍を招く。

 軍拡を続ける中国がこの悲劇を繰り返さないなどと一体誰が言えようか。

(後編につづく)

<この原稿は2008年6月号『正論』に掲載された内容を抜粋したものです>