今から10年近く前のことだ。練習後のジャイアンツ球場では、中村一知らグラウンドキーパーたちによる整備が行なわれていた。その中にひとり黙々とピッチングフォームの確認をしているピッチャーがいた。入団間もない内海哲也だった。中村の脳裏にはその姿が今も焼き付いている。
「その頃の内海投手はプロに入って、まだ1、2年目だったと思います。チームの練習が終わった後も、誰に言われるでもなく、よくひとりで残って練習していましたね。印象的だったのは、レフトとライトのポール間をシャドウピッチングしながらフォームをチェックしている姿です。おそらくポールを軸にして、身体のブレや腕の位置などを細かく確認していたんだと思います。いつも一番遅くまでやっていました。これはおそらく、グラウンドキーパーの僕らしか知らない姿かもしれませんね」

 今や内海は、押しも押されもしない巨人のエースである。今年6月16日にはプロ通算100勝目を挙げた。
「プロに入っても、一軍で活躍できるのは、ほんの一部の選手。それほどプロは本当に厳しい世界です。だからこそ、内海投手のように一流の選手は皆、陰で人一倍、努力をしているんです」
 ジャイアンツ球場には、そんな選手たちの汗がしみこんでいる。

 そのジャイアンツ球場の整備という仕事を、中村はプライドをもってやっている。グラウンド状態はもちろんのこと、ラインにもそのプライドが詰め込まれている。
「例えば僕が、他の球場に観戦に行った時、職業柄、どうしてもグラウンドの状態を見てしまうんです。『こういう整備の仕方をしているんだ』とか『そういうふうにラインを引いているんだ』とか。だから、もしかしたらジャイアンツ球場に足を運んでくれるお客さんの中にも、グラウンドの細かいところまで見ている人がいるかもしれない。その時、歴史あるジャイアンツの球場だというのに、ラインが曲がっていたり、いい加減な整備をしていたら、ジャイアンツの看板を汚すことになる。そういう重要な仕事なんだと、プライドをもってやっています」

 失敗からの学び

 その一方で、過去には見た目を重視するあまり、失敗したこともあるという。マウンドや内野部分の土は、十分な水分を含み、黒々とした色をした状態がベストである。乾燥して白っぽくなっていたり、水分を含んでいたりいなかったりと、まだら模様にならないよう、散水は非常に重要だ。だが、水分を含み過ぎた軟らかい土は、踏ん張りがきかず、選手たちにとってはプレーしづらい。そのバランスが非常に重要であり、グラウンドキーパーにとっては腕の見せどころである。とはいえ、季節や気象条件によっても土の状態は異なるため、具体的な数字で、まく水の量を決めることはできない。
「今の時期のように暑い日には、散水してもすぐにカラカラに乾いてしまうんです。だから、いつもよりも多めに水をまくようにしています。でも、まきすぎてもいけないので、気象条件を考慮しながら練習や試合が始まる時間を逆算して、水の量をまかなければいけません」
 すべてはグラウンドキーパーの経験による判断に委ねられるのだ。

 以前、中村はよくコーチや選手から「水をまきすぎなんじゃないの?」と言われていた。しっかりと水を含み、見た目にもきれいな状態で練習してもらいたいという思いから、ついつい多くまき過ぎてしまうことがよくあった。余計な水分を含んだ土は滑りやすく、ケガにつながりかねない。そのため、選手にとっては乾いた土以上に嫌なものなのだ。

「昔は水をまきすぎて、よく怒られていました。キーパーとしての知識や技術が未熟だったということもありますけど、考え方として、ちょっと間違っていたかなと。『お客さん相手のサービス業なんだから、見た目もきちんとしなければ』という気持ちが強過ぎたんだと思います。でも、やっぱり一番大事にしなければいけないのは、選手たちが安心・安全にプレーできることなんですよね。それを頭に入れてやるようになってからは、言われなくなりましたね」

 とはいえ、今でも散水はやはり難しいという。中村にとっては、最も気の遣う作業だ。
「どのくらいの量をまくかということもそうですし、どれだけまんべんなくまくかということも重要です。それが試合の日となると、練習後に10分くらいしかなかったりする。その短い時間でグラウンドの状態を見極めながら、さらにまだらにならないようにしなければならない。意外に気を付けなければならないのは、手前の部分なんですよ。遠くまで水をまこうという気持ちばかりが先行すると、手前がおろそかになることが少なくないんです。だから、まずは手前をしっかりとやってから、遠くの方をやるようにしています」

 選手の笑顔に感じる喜び

 13年間、ジャイアンツ球場のグラウンドキーパーを務める中村は、今や後輩を指導する側だ。だが、未だ自分の仕事が完璧だとは思っていない。
「散水ひとつとっても、完璧だとは思っていません。まだまだ、です。それに『これで100%だ』と思ってしまうと、そこで成長が止まってしまいますからね。もっともっと工夫できることはあるし、良くできるはずです」

 そんな中村がグラウンドキーパーとして最もやりがいと喜びを感じるのが、練習中に選手が無意識に笑みをこぼす瞬間だ。
「選手が自分のプレーに手応えを感じて『よし!』と思わず笑顔になると、こちらまで嬉しくなるんです。もちろん、選手にとっては努力の末につかんだ自信や手応えでこぼす笑顔だとは思いますが、その好プレーを引き出す基盤がグラウンドだと考えれば、僕らの仕事も役立っているのかなと」

 中村には忘れられないひと言がある。
「どこの球場よりも、ジャイアンツ球場が一番いいね」
 現役時代にはジャイアンツ球場で汗を長し、引退後はコーチとして指導したこともある川中基嗣からの言葉だった。
「選手やコーチは、試合でいろいろな球場に行きますから、それぞれのグラウンド状態をよく知っているんです。僕たちグラウンドキーパーはジャイアンツ球場のことしかほとんど知らない。だから、他の球場と比べてジャイアンツ球場が1番と言ってもらえると本当に嬉しいんです。だからこれからも、どの球場にも負けないグラウンドを作らなければいけないと思っています」
 その目にはグラウンドキーパーとしての矜持が映し出されていた。

 セ・リーグではダントツといっていいほどの選手層の厚さを誇る巨人。その要因のひとつは、やはりファームの選手たちの質の高さにあるのだろう。いいトレーニング環境が整っているという証拠だ。グラウンドキーパーのグラウンド整備は、いわばその中核を担っている。選手や観客が去った球場にはいつも彼らの姿がある。まさに“ザ・裏方”である。

(おわり)

中村一知(なかむら・かずとも)
宮崎県出身。高校まで野球部に所属。大学1年春から巨人の宮崎キャンプで手伝いのアルバイトをしていたことがきっかけで、大学卒業後、グラウンドキーパーとして球団職員となる。今年で13年目を迎えた。

(文・写真/斎藤寿子)
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