話は横道に逸れるが、中国・北京には人権問題のほか、開催地の資質を問われる課題が多いことも指摘しておく。
 まずは環境問題。中国の大気汚染は日本で考えられている以上に深刻だ。北京市内の視界は2〜3キロとされ、大気中の粉塵濃度はEUの安全基準の3倍以上に達するとの報告もある。最も影響を受けるのはマラソン、トライアスロン、自転車ロードレースなどの屋外耐久種目。北京の8月の最高気温は37度前後にまで上昇することも珍しくなく、汚染は一層深刻化する。IOCの医療責任者でさえ「期間中は大気状態を常にチェックし、場合によっては日程変更も検討する」との見解を示したほどだ。

 選手の不安も大きい。喘息の持病のある男子マラソン世界記録保持者のゲブレシラシエ(エチオピア)は、「中国の大気は自分の健康にとって大きな脅威」とし、マラソン出場をあきらめた。女子マラソン世界記録保持者のラドクリフ(イギリス)も、特殊マスクを着用しての出場を検討していると伝えられる。

 いずれにせよ、人権と環境という、IOCが最重要視する問題で?落第点?のついた中国・北京が五輪開催地に選ばれたこと自体、疑問だらけであった。その是非は別稿に譲るが、せめて北京に投票した各国オリンピック委員会には、現状についての見解を示してほしいものである。

 中国とIOCが批判の沈静化に躍起になるのと反比例して、各国の抗議活動は益々強まっている。中でも聖火リレーをめぐる混乱は前代未聞だ。早くも3月24日、ギリシャの古代オリンピア遺跡で行われた聖火採火式に、今やお馴染みとなった?手錠の五輪?の旗を持った国境なき記者団メンバーが乱入。その混乱ぶりが中国以外の世界中のテレビで繰り返し放送された。

 言うまでもなく聖火リレーを初めて政治的プロパガンダとして利用したのはナチス・ドイツである。

 発案者はドイツのスポーツ歴史学者カール・ディーム博士だと言われているが、聖火がナチス式の敬礼で迎えられるシーンなどが報道され、ナチスの宣伝活動に一役買った。以来、五輪前の聖火リレーは定番となったわけだが、オリンピック発祥の地であるアテネ(2004年)はいいとして、北京五輪でも前回同様5大陸で聖火リレーを行う必要はあるのか。

 北京五輪でも大げさに聖火リレーを行う理由は2つ。中国政府の国威発揚等の具現化と、「国際・聖火ツアー」という名の行き過ぎた商業化である。世界最高峰のチョモランマにまで行ってCO2を排出するというのは、これこそ環境破壊の象徴的シーンではないか。

 一部に「(妨害行為で)聖火を消すのは問題」との声もあるが、他国の公道で聖火を勝手につけたり消したりしているのは青い服を着た中国の“聖火警備隊”だ。彼らが守っているのは五輪の精神ではなく国家の威信である。私に言わせれば、聖火リレーに対する妨害より、こちらの方がはるかに大きな問題である。

 本題に戻ろう。出場するアスリートが何をすべきかについて。

 海外ではすでに、複数のトップアスリートが様々な形態を通じて抗議することを明らかにしている。

 例えば男子棒高跳びのロマン・メニル(フランス)は人権擁護をアピールする緑色のリボン着用を表明するとともに、他の選手にも着用を呼びかけた。

 さて、日本はどうか。残念ながら本稿執筆中に、どの選手からも勇気ある態度表明は示されなかった。

 反日的な観客の多い中国では全ての競技がアウェー状態になるため、これ以上、観客のブーイングを煽りたくない、とする不安もあるのだろう。だが、少々酷な言い方をするようだが、こうした混乱を恐れて自らの信念を封印するのであれば真のアスリートとは呼べない。

 海外遠征の多いトップアスリートは、ひとりひとりがアンバサダー(外交官)であると、私は思っている。外国人記者らに向けて発するメッセージには、常に日の丸が背負わされていると意識しなければならない。北京五輪で各国メディアは、どの国の選手がどういう抗議行動をとるかに注目している。そのリストの中に日本人選手がひとりも入らなかったとすれば、金メダルがひとつも取れなかったことよりも、ある意味悲しい。

 中国人の反感を買うような過激な行動を取れと言っているのではない。興味がないのならチベット問題を殊更強調する必要もないだろう。広い意味での人権尊重の姿勢を示すだけでも、一定の効果はある。パリでの聖火リレーの際、走者の五輪選手らが付けたバッチには、「より良い世界を」とだけ記されていた。それでも世界は、勇気あるメッセージと見た。

 やはり最大のヤマ場は開会式だろう。もともと全員参加の義務はないし、過去の五輪でも、後半日程の競技者らが参加を見送ることは珍しくなかった。いずれにせよ開会式の際、日本選手団の参加率が最も高く、晴れやかに手を振って行進した、というレポートだけは書きたくない。

 とはいえ、アスリートだけに重荷を負わせるわけにはいかないだろう。政治家も報道する側も自らの良心に従って抗議の意思を態度で示すべきだ。しかし現実には、日本の政治家たちの何と頼りないことか。

 日頃は中国批判を繰り返している石原慎太郎都知事が記者会見で、「招待状をもらっていましてね。何も大騒ぎすることはない。状況次第では行きますよ」と開会式出席の意向を示したのは、失望を禁じ得なかった。

 東京が2016年五輪開催地に立候補している手前、悪影響を懸念するJOC関係者から「中国を刺激しないように」と釘を刺されているのかも知れないが、言行不一致と言われないためにも、北京を訪れる際にはチベット問題に対するきちんとしたメッセージを発信してほしい。

 冒頭に紹介したトミー・スミスは、差別反対の政治的パフォーマンスをした後、五輪はもちろん、ほとんどのスポーツ大会から追放され、いばらの道を歩むことになる。しかし、米国内の黒人差別が改善されるとともにその功績に光が当てられ、後年は米ナショナルチームの陸上補助コーチなどとしてスポーツの檜舞台に復帰。スポーツマンシップを讃える数々の賞を受賞し、2005年には母校の大学敷地内に銅像が建てられた。

 ある時、「メキシコシティ五輪にもう一度戻れたら、同様のパフォーマンスをするか」と聞かれて、こう答えたと伝えられる。

「します。私はスポーツマンのひとりとして、これまでも、これからも、人権を守るために努力し続けるでしょう」

 最後に付け加えておく。アスリートたちは、実際の金メダルはもちろん、心の金メダルも目指してほしい。

(おわり)

<この原稿は2008年6月号『正論』に掲載された内容を抜粋したものです>