20年東京オリンピック・パラリンピック招致を決めたブエノスアイレスでの最終プレゼンテーションで、自身の体験をベースにした感動的なスピーチで大役を果たしたパラリンピック・走り幅跳びの佐藤真海が踏み切り足を健足の左足から義足の右足にかえたのは北京大会の後からだ。
 健常者でも踏み切り足をかえるのは容易ではない。障害者なら、なおさらである。熟考の末の決断だった。

 男子を中心に、アテネ大会あたりから義足踏み切りが主流になってきた。健足で踏み切るより義足の板ばね部分の反発力をいかした方が、記録が伸びることがはっきりしてきたからだ。

 しかし、頭では理解できても、体はすぐには反応しない。「最初のうちは義足のどこで踏み切っているかさえわからなかった。もう違和感どころじゃなかったですよ」。苦悶の日々を振り返って、佐藤は言った。

 骨肉腫で右足の下腿部のほとんどを失った。佐藤の義足を製作する義肢装具士の臼井二美男によれば、「ピストリウスの 断端(切断後に残された足の先)はヒザ下が 25センチあるのに対し、真海ちゃんは 12センチしかない。当然、短い方が不利」。義足踏み切りをモノにするのは容易ではなかった。

 恐怖心を消し去るのにも時間がかかった。「私の場合、ヒザから下の部分が短いのでパランスを崩しがち。そうなるとケガにもつながる。跳べない時期は“いつ健足に戻そうか”と毎日のように自問自答を繰り返していました」。義足踏み切りをどうにかマスターしたのはパラリンピックイヤーの 12年。3月の最終選考会で4年ぶりの自己ベストを出し、ロンドン行きにつなげた。本番では決勝進出にあと1センチにまで迫ってみせた。

「努力が実ってきたんですよ」。目を細めて臼井は続ける。「以前は健常の左足の大腿に比べると右足の大腿は、かなり細かった。それが今では、ほとんど同じ周径です。ヒザ周辺の筋力が強化されれば、さらに記録は伸びるでしょう」

 31歳の佐藤は4月のIPCグランプリで、自己記録を 16センチも伸ばし、日本記録保持者となった。地球の裏側で彼女はこう言った。「私にとって大切なのは、私が持っているものであって、私が失ったものではないということ」。言葉が胸に響くのは、彼女が名プレゼンターだからではない。どんな苦難に見舞われようとも、決してアスリートとしての歩みを止めないからである。

<この原稿は13年9月25日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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