「わたしの引退興行で、試合をやってもらえませんか?」
 総合格闘家の美花選手から、こんなお願いをされてしまった。引退してから7年も過ぎているのに、不思議とこのようなオファーが後を絶たない。

 うれしい反面、その期待に応えられないので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「では、レフェリーならどうですか?」
 これまで総合格闘技のレフェリー経験はないが、引き受けることにした。

 美花選手と出会ったのは、6年ほど前に行なわれた「UWAI STATION」というプロレスの興行だった。彼女は、女子プロレスの神取忍選手への刺客として、横峯さくらのお父さんである良郎氏が連れてきた大物格闘家だった。

 大のプロレスファンとして知られる横峯パパが、美花選手のセコンドに付き、この大会を盛り上げたのである。この試合は、プロレスファンだけではなく、一般のマスコミにも取り上げられるなど華々しいプロレスデビュー戦となった。

 その後の活動は、残念ながら接点がなかったが、次に会うのが引退試合になろうとは夢にも思わなかった。最後は、プロレスではなく、総合の試合で幕を引くようだった。

 そして美花選手が選んだ最後の相手は、なんと中村和裕選手であった。男子選手、しかも総合格闘技のトップファイターだ。彼は現在、総合格闘技団体DEEPのミドル級チャンピオンである。

「中村カズ選手って、PRIDE全盛期の頃、あの(イゴール・)ボブチャンチンに勝ったり、ヴァンダレイ・シウバ選手との試合も凄かった。当時は日本人最強説を唱えるファンも多かったよね」
 格闘技通の友人は、このカードを聞いて、とても興奮していた。

 総合ファンが一目おく強者を最後の相手に選ぶなんて、美花選手はただ者ではない。「実は、神取忍選手にオファーをかけていたのですが、急遽出場ができなくなり、このカードしかないと思って……」との本人からの説明だが、女子がダメだから男子選手という発想は、さすがプロレスラーである。

 しかし、数ある男子選手の中で、随分と強い相手を選んだものだ。
「実は……彼は国際武道大学の後輩なんです」
 大学つながりのオファーだったのだ。

 国際武道大といえば、Uインター時代の僕の後輩である松井大二郎選手の出身でもある。早速、松井選手に美花選手や中村選手についての情報を求めた。
「美花選手のことはよく知りませんでしたが、中村カズ選手とは、今年の6月に行なわれた広島(福山)での興行で対戦したばかりです」

 結果はスタンドでパンチをもらい、倒れたところへパウンドの嵐により、レフェリーストップで、松井選手の敗北だったそうだ。
「いや~、かなり強かったです。すべてにおいて自分を上回っていました」

 後輩である中村選手に負けたのは、かなり悔しかったはずだが、素直にその才能を認めていた。やはり中村選手は、日本の総合ではトップレベルで間違いないようだ。テレビでしか見たことのなかった中村選手だが、松井選手の後輩と聞き、急に親近感を覚えた。

 試合当日、僕は足早に中村選手の控え室へ向かい、いろいろと話を伺ってみた。まず、美花選手とは柔道部としては一緒だったものの、当然ながら男女一緒に練習することはなく、在学中は大きな接点はなかったと聞いた。

「(美花選手は)ちょっと怖いオーラを出していたので、近づきがたいものがありましたよ」
 こう言って、中村選手は白い歯を見せた。

 大学を卒業してからも柔道を続け、日本のトップ選手にのぼり詰めた中村選手だったが、総合では、どの選手が強いと思っているのだろうか?
「やっぱりボブチャンチンとかヴァンダレイとかのパンチは効きましたね」 
 
 真っ先に出てきたのは、ハードパンチャーの2人だった。あの頃のPRIDEを見ていた誰もが、この2人とは絶対に対戦したくないと思ったはずだ。

 強豪と対戦することが多かった中村選手の体は大丈夫なのだろうか?
「致命傷になるような怪我は今のところないですね」

 このようにさらりと答えてくれたものの、よくよく聞いてみると一度、試合でアゴを折ったことがあるそうだ。アゴの骨を折ってしまうと怖くて次からは打ち合えなくなるものだが、それを微塵も感じさせないファイトぶりには驚くばかりである。ボクシングの世界チャンピオンである八重樫選手もそうだが、かなり負けん気が強いのだろう。

 僕なんかは眼底骨折をやってから、正直、恐怖心が先に立ち、打ち合えなくなった。僕の目の怪我の話題から、中村選手はこんなことを明かしてくれた。

「実は……強いて気になるのは、黒い小さな点が見えること。夏なんか蚊と見間違えてしまうので正直困りますよ」

 ボクサーなどに多い、飛蚊症などの類だろうか。明るいところだとそれが顕著になり、難儀するという。ファイターの宿命とはいえ、みんな怪我を抱え、必死に頑張っているのである。

 大会の主役である美花選手もヒザがボロボロであった。今回、5分間のエキシビションとはいえ、絶対に怪我をしないようレフェリーとして、細心の注意を払った。
「危険だと思ったら、すぐに止めてください」
 中村選手から、このようなコメントを聞いていたからである。

 しかし、試合になると美花選手の一本背負いやパンチを受け続け、中村選手から攻めることはなかった。この数日後、中村選手は、戦闘竜選手の引退試合の相手も務めている。ちなみにその試合は、1ラウンドKO勝ちであった。

 そういえば3年前には吉田秀彦選手の引退試合の相手も務め、師匠を破っている。たとえ引退試合であろうと勝負に徹する非情なるファイターも女性にだけは優しかった。

(毎月10、25日に更新します)

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