日本の正月の風物詩ともなっている「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)。来年1月には90回を迎えるこの大会に、70回以上出場しているのが東洋大学だ。今や、毎年のように優勝候補に挙げられている同大だが、初めて総合優勝を手にしたのは、今からわずか4年前の2009年のことだった。60年以上も辛酸を舐め続けてきた同大を強豪校に押し上げたひとりが、指導者として、スカウトとしてチームに携わってきた佐藤尚コーチである。今回は佐藤コーチの選手の力を見抜く“目”に迫る。
 エネルギーがあふれ出ていた柏原

 4年前の箱根駅伝で鮮烈なデビューを飾り、4年間で3回の総合優勝に導いたのが柏原竜二(富士通)だ。“新・山の神”と謳われ、箱根駅伝の歴史にその名を刻んだ柏原だが、高校ではインターハイ、国民体育大会、全国高校駅伝のいずれにも出場したことはなく、まったくの無名だった。その彼を東洋大にスカウトしたのが、佐藤だ。

 佐藤が初めて柏原を知ったのは、柏原が高校2年の時だった。ある競技会で佐藤の目に留まったのだ。その後も何度か競技会や駅伝に足を運ぶとともに、現東洋大監督で、当時は福島で高校の教師を務めていた酒井俊幸からも柏原の情報を得ていた佐藤は、彼のがむしゃらさが気に入った。だが、それだけで決めたわけではない。佐藤は、必ず本人と話をし、対話の中で感じた選手の印象を大事にしている。

「話をすると、徐々に選手の本音が見えてくるんです。もちろん、最初は緊張もしているだろうし、先生からアドバイスされたセリフを言うんでしょうけど、たわいもない話をしているうちに、ポロッと出てくるものなんですよ。そこでいい面も悪い面も、人間らしさが見えてくる。それが重要な判断材料となるんです」

 柏原はというと、彼は福島県立いわき総合高校のグラウンドを訪れた佐藤に対して隠すことなく、自分の思いをぶつけてきたという。それは後先考えず、前半から飛ばす走りのスタイルとも相似しており、佐藤には感じるものがあった。
「柏原は、“大学で走りたい”という熱い気持ちが、体からにじみ出ていました。当時、彼に声をかけてきた大学はひとつもなかった。だから私に声をかけてもらったのを意気に感じたんでしょうね。“今すぐにでも走りたい”と訴えかけるような感じでしたよ。“これは面白い選手だ”と思いました」

 大学入学後の柏原の活躍は周知の通りである。初めての箱根で5区を走り、8人のごぼう抜き。07年に同郷の先輩である今井正人(当時順天堂大)がマークした区間記録を47秒も更新する快走で、4分58秒差を逆転し、同大を初の総合優勝に導いた。“新・山の神”の誕生の瞬間だった。4年連続で5区を出走した柏原は、いずれも区間賞を獲得し、トップでゴールテープを切って往路優勝を達成。3年時を除き、3度の総合優勝に貢献した。

 佐藤が柏原をスカウトして成功だったと思えたのは、何もレースの結果だけではない。彼の存在感もまた、大きかったと感じている。
「柏原は4年生でキャプテンに就任しましたが、特に話がうまいわけでもなかったし、キャプテンシーがあったわけでもなかった。ただ、存在感はずば抜けていましたね。とにかく『勝ちたい』という気持ちが溢れていた。練習はもちろん、生活においてもそうでした。そんな彼が醸し出していた雰囲気が、他のメンバーにもいい刺激を与えていたんだと思いますよ。言葉がなくても、彼は立派にキャプテンとしてチームを牽引してくれました」

 数字より閃き重視のスカウティング

 そして、この柏原からのたすきを受け、3年連続で山下りを担当したのが、1学年下の市川孝徳だった。高校から陸上を始めたという市川は、3年連続で全国高校駅伝に出場した経験こそあるものの、やはり全国的にはほとんど無名だった。佐藤が市川を初めて見たのは、高知工1年の時に出場した全国高校駅伝だった。レース前、全国各地から集結した選手たちがウォーミングアップをしていた西京極陸上競技場のグラウンドで、佐藤の目に留まったのが当時1年の市川だった。

「大勢いる選手の中で、パッと目についたのが市川だったんです。何か光るものを感じました。それが何かと言われると、言葉には言い表せないのですが、とにかく感じるものがありましたね」
 聞けば、高知工の選手だという。早速、同校の監督に話を訊くと、「アイツはムラのある選手で、なかなか本番で力が発揮できないんですよ」という答えが返ってきた。その言葉通り、市川の全国高校駅伝での区間成績は27位、44位、41位に終わった。だが、佐藤の関心は薄らぐことはなかった。

「パッと見ていいと感じた選手は、成績なんかに惑わされずに、ずっと追いかけていくべきだと思いますね。市川も結局は、柏原と同じく、一本釣りですよ。どこもライバルは現れませんでしたからね」
 大学入学後の柏原と市川の活躍を見れば、佐藤に“してやったり”という思いは、少なからずにあったに違いない。

 柏原も市川も、佐藤が「よし、この選手だ」と最終判断を下すのは、練習の姿を見てからだ。他のスカウトが本番での走りを判断材料とする中、佐藤はなぜ普段の練習を重視するのか。
「レースでの走りというのは、本人というよりも、指導者がつくりあげたプランを基にして走るわけです。それが悪いというわけではありませんが、ちょっと面白みがないですよね。一方、練習は強さも弱さも出てくるから、見ていて面白い。それにレースではなかなか本人と話せませんが、練習だったら気軽に声がかけられるという利点もある。だから、レースよりも練習の方に足が向いちゃうんです」

 東洋大は、12年1月の箱根駅伝で3度目の頂点に立った。重要な“山登り”と“山下り”を担当したのは、柏原と市川。高校時代は無名のランナーだった2人であった。まさに、それこそが東洋大の強さなのだろう。佐藤が見つけた原石は、確かに光り輝いていた――。

(後編につづく)

佐藤尚(さとう・ひさし)
1953年4月29日、秋田県生まれ。秋田工業高時代は中距離選手として活躍。東洋大では陸上部のマネジャーを務めた。卒業後、故郷でサラリーマンの傍ら母校の陸上部を指導する。94年に東洋大監督に就任し、2002年からはコーチとしてスカウト活動も担当する。09年、監督代行として箱根駅伝で初の総合優勝に導く。同年3月からコーチに戻り、現在に至る。

(文・写真/斎藤寿子)
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