小学5年で松岡修造に類稀な才能を買われ、中学1年からの4年間は錦織圭と同じIMGニック・ボロテリー・テニスアカデミーに留学。世界各国から選ばれた凄腕のプレーヤーたちとともに腕を磨いた。14歳で同世代の強豪が集うエディー・ハー大会で日本人選手初の優勝達成。18歳の時には4大大会などと並ぶ最高グレードの大会である世界スーパージュニアでシングルス、ダブルスの2冠を獲得。こうした輝かしい実績を手に、2011年にはプロに転向した。錦織に続く若きホープとして、将来を嘱望されている。それが内山靖崇だ。
 母親がテニスを趣味としていたことから、内山にとってものごころついた時から最も身近なスポーツはテニスだった。
「僕、ここに入ってやってみたい」
 小学2年の時、自宅に届けられたテニススクールのチラシ広告を見て、そう言ったひと言が始まりだった。本人はまったく覚えていないというが、それほど内山にとっては自然な流れだったのだろう。

 初めて大会に出場したのは、小学3年の時。4年からは全国につながる大会にも出場するようになると、それまでの単なる“楽しい”から少しずつ“勝ちたい”という気持ちが芽生え始めた。5年時には全国で2度、ベスト4に進出した内山は、6年時には3つある小学生の全国大会(全国選抜ジュニアテニス選手権、全国小学生選手権、全日本ジュニア選手権)すべてで優勝と、同世代では敵なしの状態だった。

「一番思い入れ深いのは、最後の全日本ジュニアですね。実は、大会前から腰を痛めていたんです。ひどい時には、歩けないくらい痛かった。そんな中、毎日、試合後にはマッサージをしてもらいながら、なんとか乗り切れたという感じだったんです。今考えても、よく頑張ったなと思いますね」

 松岡からの“愛のムチ”

 早くから内山に目をかけていたのが、元プロテニスプレーヤーの松岡だった。松岡が主宰するトップジュニアキャンプ「修造チャレンジ」に呼ばれたのは、5年の時。もちろん松岡の存在は知ってはいたが、11歳の少年には自分が日本テニス界において将来を嘱望された身であることなど、まったく理解していなかった。訳も分からず、キャンプに参加した内山は初日から大きな衝撃を受けた。

「当時の僕にとってテニスは、基本的には楽しんでやるものだったんです。その結果として、勝敗があった。ところが、キャンプでは“世界とは”“世界に勝つためには”ということをどんどん言われる。僕にとっては何のことだか、さっぱりわからなかった。いきなり世界と言われても、まったくイメージできず、ただただ困惑するだけでした」

 内山を除いて、キャンプに参加したメンバーは6年生から中学2年生であり、みんな世界で活躍したいと必死だった。そんな中、ただ1人最年少の内山は、松岡の気迫に圧倒されていた。それが松岡にとっては、やる気がないように見えたのかもしれない。キャンプ初日、内山に松岡からカミナリが落とされた。

 練習の最後にグループに分かれての対抗戦が行なわれた。すると、内山のグループが最下位となった。罰ゲームとして内山らに課されたのは、1分間の英語スピーチだった。他のメンバーは全員中学生で、なんとか1分間英語で話し終えた。しかし、小学生の内山に知っている英語は皆無に等しかった。松岡をはじめ、全員の目が注がれる中、無言のまま、1分が過ぎた。その瞬間、コート内に怒号が響いた。
「今すぐ帰れ!」
 怒りをあらわにした松岡だった。

「言われた瞬間は、まったく意味がわからなくて、キョトンとしてしまいました。『えっ!? 僕、小学生だよ。英語なんてわからないよ』と。泣きながら部屋に戻り、どうしていいのかわからずに困っていると、スタッフコーチが来て『もう1回、チャレンジしろ。英語なんて、何でもいいんだよ』と言ってくれたんです。それで、ちょっとだけ英語を教えてもらって、もう1度挑戦しました。それで事なきを得たんです」

 その日の夜、松岡は内山を呼び、こう言ったという。
「もっと、自分をアピールしなくちゃダメだ。そんなんじゃ、世界で通用しないぞ」
 正直、その時の内山には松岡の言葉は現実のものとしてとらえきることはできなかった。しかし、今なら松岡の言いたいことは痛いほどわかる。

「本当に英語なんて、何でも良かったと思うんです。たとえ間違っていても。でも、僕は何も言おうとせず、1分間、黙ったままだった。松岡さんは、何かしようとする姿勢を見たかったんだと思います」

 ジュニア最後につかんだ自信

 小学6年で全国大会3冠に輝いた内山は、「盛田正明テニスファンド」からのサポートにより、中学1年の夏、フロリダにあるニックボロテリー・テニスアカデミーに短期留学した。それが初めての海外だった。松岡が言っていた“世界”を初めて自分の目で見たのである。

「すごい施設とすごい人数、そして当たり前ですけど、外国人ばかりの環境は、中学1年の僕には大きな衝撃でした。“こんな世界もあるんだな”と。そんな中で2週間過ごすうちに、“こういうところで自分もやっていきたい”と思ったんです。それが初めて世界を意識した時でした」

 同年9月から正式に拠点を米国に移し、アカデミーでの練習が始まった。そこはまさに弱肉強食の世界だった。
「試合に勝っていく選手は、どんどん上のクラスに行って、強い選手と練習ができる。逆に負けてばかりいる選手は、コーチからもあまり相手にしてもらえない。初めて実力主義の社会を目の当たりにしたという感じでしたね」
 アカデミーで1日8時間の練習を積み、内山は身体的にも技術的にもレベルアップした。そしていつしか内山の中のものさしは“国内基準”から“国際基準”へと変わり、「世界で勝つためには」という意識が強くなっていった。

 4年間の留学を終え、内山は09年末から拠点を東京へと移した。翌年4月、その年から始まった筑波大学国際テニストーナメント(つくばフューチャーズ)でシニアを相手に優勝した内山は、10月にはジュニア最後の大会となった世界スーパージュニアでシングルス、ダブルスの2冠を達成。そこで、ようやくプロ転向への自信をつかんだという。
「プロになろうという思いでアカデミーに留学したのですが、なかなかジュニアの4大大会で3回戦の壁を破れなかった。そんな中、ジュニア最後の年に2つの大会で優勝することができた。それでようやく『世界でやっていける』と思えたんです」
 2011年、内山はプロとしての道を歩み始めた――。

(後編につづく)

内山靖崇(うちやま・やすたか)
1992年8月5日、北海道生まれ。小学2年からテニスを始め、6年時には全日本選抜ジュニア、全国小学生選手権、全日本ジュニア選手権の3冠を達成した。中学1年から4年間、ニックボロテリー・テニスアカデミーに留学。中学2年時にエディー・ハー大会14歳以下シングルスで優勝。2010年より拠点を東京に移し、同年世界スーパージュニアでシングルス、ダブルスに2冠に輝く。11年、プロに転向し、北日本物産に所属。今年2月の国別対抗戦デビス杯で日本代表デビュー。楽天ジャパンオープンでは錦織圭とダブルスを組んだ。


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(文・写真/斎藤寿子)
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