地上最速の動物とされるチーターはスピードに乗れば、ゆうに時速110キロを超えて走ると言われている。このチーターの走りを日夜、研究している珍しいアスリートがいる。四足走行「100メートル16秒87」のギネス世界記録を持ついとうけんいち(本名・伊藤健一)だ。
 先週の木曜日、東京・駒沢オリンピック公園総合運動場で開催された「第1回四足走行100メートル世界大会」に出場したいとうは、自身の持つ世界記録17秒23を0秒36も更新した。

「二足走行で1年で1秒ずつ縮めるのは、ほぼ不可能ですが、四足走行の場合、まだ研究の余地がある。僕は1年でだいたい1秒ずつタイムを縮めている。このまま行けば東京五輪が開催される2020年には9秒台に突入する。金メダルも不可能ではないと思っています」。異能の青年は、どこまでも大真面目だ。

 初めていとうを取材したのは3年前の1月である。四足走行という聞き慣れない“種目”のギネス世界記録保持者がいると聞き、興味が湧き、会いに行った。指定された場所は都内の公園。カメラを向けると、いとうは芝の上に手を付き、四つん這いになるや、猛然と走り始めた。近くにいた幼稚園児が彼の姿を見つけると、キャーキャー言いながら後を追った。これまで経験したことのない不思議な取材だった。

 なにしろ珍しい種目だから苦労が絶えない。危うくハンターに撃ち殺されそうになったこともある。「広島の山中でトレーニングを行っていた時のことです。きっとガサガサ物音がしたんでしょうね。イノシシと間違われてしまった。ハンターの銃口がこちらを向いたので“いや人間です”と言って事なきを得ました……」。笑うに笑えない話だ。

 そこまでして、何ゆえにこの種目に「人生を賭ける」のか。いとうは言う。「人類はどこまで速く走れるか。それに挑戦したいんです。去年から記録が伸びたのは後ろ足から前足(手)に体重を乗せたフォームに変えたからです。チーターが全力で走っている時は背中が波打っている。腹筋と背筋を鍛えれば9秒台も夢ではないと思っています」

 はてさて、この31歳、新種目のパイオニアか、それとも単なる変人か。私見を述べればマニュアル全盛の時代、こういうユニークな男が、ひとりくらいいるのも悪くはない。歴史は、どんな審判を下すのだろう。

<この原稿は13年11月20日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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