物語は長野の4年前のリレハンメル(ノルウェー)にまで遡る。
 ジャンプ団体戦。原田雅彦、葛西紀明、西方仁也、岡部孝信の4人で構成する日の丸飛行隊は7本を飛び終え、2位ドイツに55.2ポイントの大差をつけていた。距離に換算するとアンカーの原田が104メートルを飛べば、日本は史上初の団体戦金メダルを獲得できる手はずだった。
<この原稿は2006年3月の『月刊現代』に掲載されたものです>

 1本目のジャンプで原田は122メートルを飛んでいた。金メダルはちょっと手を伸ばせば届くところにあった。

 ところが――。テイクオフのタイミングを間違えた原田はみるみる失速し、目標の地点よりもはるか手前に落下した。無情の97.5メートル。陽気な男が頭を抱え込んで雪上にうずくまるシーンをカメラは残酷なまでに映し出した。
 リレハンメルでは、まだナショナルコーチングスタッフに入っていなかった西方千春はこのシーンを観客席から見ていた。雪印乳業の後輩にあたる原田の心境を察すると胸が痛んだ。

「原田の場合、テイクオフのタイミングがほんの1メートルくらい早くなってしまうクセがあるんです。それを防ぐためテストジャンプで、わざと1メートルくらいタイミングを遅らせ、50メートルくらいの地点にドンと落ちる練習をやっていました。そうやってテイクオフのタイミングを確認していたんです。非常に危ないんですけどね。もっとも1メートルといっても、時間に換算すると、わずか100分の4秒。もうミクロの世界ですよ。
 それに、あのときは風も悪かった。たまに追い風も吹くんです。不運が重なってしまった。ただ、後になって考えると、あのときは最後の原田を除き、すべてがうまく行きすぎていた。メダルを争う実力があっても、金メダルを獲れるだけの力はまだなかったということだと思います」

 舞台は再び白馬。
 第2ラウンド、日の丸飛行隊の沈滞ムードを振り払ったのは斬り込み隊長の岡部だった。持ち前のロケットのようなジャンプで137メートルも飛んでみせた。岡部の豪快な“先頭打者ホームラン”で日本は3チームを抜き去り、一気にトップに躍り出た。
 実はこの岡部の“先頭打者”起用には、ある秘策が秘められていた。

 西方の回想――。
「最初の走者はオーバースピードで飛ぶことになるんですが、K点を越えても岡部は立つことができる。グループごとにスタートの位置は変わる。岡部がホームランを打てば、次のグループでは必然的なスタートの位置は下げられる。スタート位置が下がったほうが、実力がはっきりするんです。助走でのスピードが得られないと“まぐれ当たり”が少なくなりますから。これは実力派揃いの日本には好都合。スタート位置が下がっても、次の斉藤なら確実に飛んでくれる。そういう狙いで“打順”を組んだんです」

 西方をはじめとするコーチ陣の狙いはピタリ的中した。2番・斉藤はまるで現役時代の巨人・篠塚和典のバッティングを彷彿とさせるような精度の高いジャンプに定評があった。2本目もきっちり124メートルを飛び、5.2ポイント差でしっかり首位をキープ。そして金メダルへのバトンはホームランバッターの3番・原田へ――。
「できるだけ遠くへ、できるかぎり……」

 秒速2.1メートルの向かい風。絶好の風だ。助走路では時速89.8メートルのスピードを得た。
 テイクオフのタイミングはピタリと決まった。スキー板の角度は45度。グレーの空に剣先を突き立てた。まるで虹を描くようなスーパージャンプ。しゃがみ込むようなランディングは「着地」というより「着陸」という表現のほうがふさわしかった。

 K点をはるかに越え、どこまで飛んでいくのか。バッケンレコードタイの137メートル。この度肝を抜くスーパージャンプで、日本は事実上、ほぼ金メダルを確実にした。2位ドイツとの差は24.5メートル。大気圏突入後、ゆっくりと地球上の雪面に舞い降りた原田は涙で目をうるませながら声にならない声で叫んだ。

「フナキ〜、フナキ〜、頼むぞォ〜」
 冬季五輪史上に残る名シーンだ。

 第4グループ、アンカーは若きエース、船木。彼の「世界一の飛型」をもってすれば、106メートルも飛べば悲願は達成される。
 しかし、ジャンプは魔物である。白馬の女神の機嫌次第で風はどのようにも変わる。何が起こるかわからないのがこの競技の恐ろしいところだ。

 かつて私は、「天才ジャンパー」の異名をほしいままにした秋元正博氏から、こんな話を聞いたことがある。
「もし、自分のときだけフォローの風が吹いたら、運がないと思って諦めるしかない。この競技、はっきり言って運が50%を占めます。神頼みじゃないけど、スタートの前は“風もオレの味方なんだ。風がオレを世界一にしてくれるんだ”とでも思い込むよりほかに方法がない。結局、風とは友だちになるしかないんです」

 この島国の期待を一身に背負って船木が飛んだ。いつもながらの風を切り裂く、低い姿勢。K点越えの125メートル。電光掲示板に「JAPAN」の5文字が点滅した。

 4年越しの金メダル。ドラマを作ったのが原田なら、歴史を作ったのは船木だった。コーチ陣は大ホームランもあるが三振もある原田を据え、どんな状況でも確実にタイムリーヒットを放つことができる船木を4番に抜擢した。もし原田と船木の打順が逆だったら……。結果は神のみぞ知るところだが、少なくともあれだけ劇的な大逆転のドラマをわれわれが目にすることはなかっただろう。

 再び西方の回想――。
「心情的には最後に原田に飛ばして、リレハンメルのときの借りを返させてやりたかった。しかしわれわれが狙っていたのは団体戦での金メダル。どっちが確実に飛べるかといったら、やっぱり船木だろうと。3番・原田なら彼の2本目で試合を決めることができる。それくらい、当時の原田には力があった。ダメでも最後の船木が何とかしてくれるだろうと。これはコーチ陣全員の一致した意見でした」

 表彰式が終わった後、西方たちコーチ陣は再び控室に集まった。誰ともなく口にした次の一言が、いまだに西方には忘れられない。

「いやぁ、原田主演のドラマだったなァ……」

(後編につづく)
◎バックナンバーはこちらから