長野が栄光の頂だとするなら、その先、日の丸飛行隊に待っていたのは挫折と絶望の滑走路だった。
 リレハンメルから続く大河ドラマのエピローグが見たくて、私は4年後、するとレイクシティへ飛んだ。記憶に残っているのはブルーの絵の具をパレットに薄く溶かしたような退屈な空。アクセサリー代わりの乳白色の飛行機雲。そして、しなだれたままの日の丸と鯉のぼり。3大会ぶりのメダルなし。完敗だった。
<この原稿は2006年3月の『月刊現代』に掲載されたものです>

 ソルトレイクでの団体戦の打順は1番・原田雅彦、2番・山田大起、3番・宮平秀治、4番船木和喜。メダル当落線上の日本は先頭・原田のロングヒットにチームに勢いをつける作戦に出た。しかし1本目は119.5メートル、2本目114.5メートル。大空に羽ばたくような豪快なジャンプは、ついに見られなかった。

 試合後の原田は驚くほどサバサバしていた。
「天気はいい。運不運もない。文句の付けようのないコンディション。ヨーロッパ勢の強さをまざまざと見せつけられました。日本は新たな課題を抱えて再スタートしなければ……」

 日の丸の翼が折れた理由のひとつに98年夏のレギュレーション変更があげられる。それまでスキー板の長さの上限は「身長プラス80センチ」と決められていたのだが、「身長×146%」に変更されてしまった。総じてヨーロッパ勢に比べ身長の低い日本人が不利を被ることは目に見えていた。

 西方千春は言う。
「あれは95年の12月ごろかな、たしか船木がデビューしたスロベニアのプラニツァで小野(学)さんにこう話したことを覚えていますよ。“身長プラス80センチって、そもそもおかしいよね。オレだったら身長比例制にするけどな”って。いずれ、こういう話が出てくるだろうことは予想していましたよ」

 長野で日本人が表彰台を独占したことで、国際スキー連盟において身長比例制は喫緊の課題となる。
「ナガノで日本人に花を持たせたのだから、今度はこっちの言い分を聞いてもらおう」との判断がヨーロッパの理事たちの間には暗黙の了解としてあったのかもしれない。

 西方は続ける
「たしかに日本人には不利なルール改正ですが、それですぐに日本人バッシングだというのはどうか。国際スキー連盟は興行的なことを考えていましたからね。日本人が勝ちすぎるからルールを変えたのではなく、誰もが均等に勝てるルールにしたほうがお客さんが喜ぶという判断があったんじゃないでしょうか……」

 同感である。日本人のルールに対するナイーブさは、そのまま弱さにつながった。
 総じて日本人はルールを変えることに臆病である。上は憲法から下は校則に至るまで。これは子供のころからの教育に原因があると私は考える。この国では子供たちに「ルールを守れ」と教えても「ルールを作れ」とは教えない。欧米では「自分たちで作ったルールだから守れ」と教え込む。
「不都合が生じたら、また変えてみろ」と。

 ルール変更に対する適応の遅れがソルトレイクでの敗北につながったのは言を俟たない。日本人が戸惑っている間にヨーロッパ勢は進化を遂げ、ソルトレイクの表彰台を独占してみせた。
 ノーマルヒル、ラージヒルで金メダルを獲ったスイスのアマンは身長172センチ。ラージヒルで銀メダルを獲ったポーランドのマリシュは、わずか169センチ。彼らはテイクオフと同時にV字をつくり、揚力を得た。私の目には彼らの姿はムササビに映った。

 西方は分析する。
「マリシュが短いスキー板で(W杯を)勝ち続けていたことで、やれ筋力だ、脚力だという話になっちゃったと思うんです。それで日本人本来が持つバランスが崩れてしまった。ところが(ソルトレイクでの)アマンの飛び方はそうではなかった。結局、いろいろな情報に左右されすぎた。日本人本来のジャンプを見失った8年間だったわけです」

 長野以降、低空飛行を余儀なくされていた日の丸飛行隊に、ここにきて一条の光が射し込んできた。身長165センチ。ルール改正で最も影響を受けた男の復活である。1月15日に札幌で行われたコンチネンタル杯兼STV杯では1回目で最長不倒となる139.5メートルをマークして優勝を飾った。2回目はゲートを2.5メートル下げて格の違いを見せつけた。試行錯誤の末にたどり着いた低い姿勢で鋭く風を斬る「理想のジャンプ」。35歳のエース。原田雅彦37歳。ベテランの奮闘が「失われた8年」を象徴しているとしたら、これ以上の皮肉はない。

(おわり)
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