キンシャサの奇跡――。今から39年前の秋、モハメド・アリがWBA・WBC世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンに挑み、大方の予想を覆して、8ラウンドKOで仕留めたボクシング史上に残る戦いを指す。
 ベトナム戦争への徴兵を拒否したことを理由に王座を剥奪されてから7年。全盛期を過ぎたアリが、無敗のフォアマンに勝つ可能性は極めて低いと考えられた。ところが奇跡は起きたのだ。

 本書(生島治郎訳、集英社)は決戦前夜からタイトルマッチはもちろん、戦いの背景までをも克明に描いたボクシングノンフィクションの最高傑作である。メイラーの作品らしく難解な部分もあるが、緊迫感に満ちた描写は他の追随を許さない。まるで作品そのものがボクシングのようですらある。

 本書を読むまで知らなかったのだが、試合開始のゴングが鳴る直前、リング中央でアリは言葉の“先制パンチ”を見舞っている。
「ガキのときから、おれの噂は聞いているはずだ。ちっぽけなガキの頃から、おまえはおれを見習おうとしてきたんだろうが。さぁ、ここでたっぷり、その先生が教えてやるぜ!」
 即座にフォアマンは言い返す。
「口をつかうラウンドはおまえのものだ。だが、本番はこれからだぞ」

 勝因は「ロープ・ア・ドープ」という秘策である。“象をも倒す”といわれたフォアマンの強打を封じるために、アリが採った戦法は意表を突くものだった。アリは顔をガードしながらロープを背負い、フォアマンの打ち疲れを待った。そして、一瞬のスキを突き、ジャブやワンツーでチャンピオンの顔面を切り裂いたのだ。著者によれば、それは<外科手術を思わせる攻撃だった>

 フィナーレは唐突に訪れた。8ラウンド、ガードを解いたアリは的確なワンツーでフォアマンの急所を射抜き、キャンバスに沈めた。そのシーンを著者はこう描く。
<弾丸の数を計算しておいた籠城中の兵士がここぞとばかりに射撃するのと同様に、とっておきの効果的なパンチだった>
 そうだ、アリはロープを背に長い時間、籠城していたのだ。雨あられと降り注ぐ砲弾に耐えながら、辛抱強く狭間から射撃の機会を窺っていたのである。

 こうした臨場感あふれる描写はメイラーの独壇場である。アリは著者を「英知の人」と呼んだが、同時に「観察の人」でもあった。あたかも電子顕微鏡で微生物でも観るようなミクロの視線で2人のボクサーを追い、思索し、記録し、表現し続ける。

 その意味ではリングサイドにおける検視官のような著者の行為もまた「ザ・ファイト」だったのではないだろうか。改めて読み返してみて、その思いを一層強くした。 「ザ・ファイト」(ノーマン・メイラー著・生島治郎訳・集英社)

<上記は2013年3月27日付『日本経済新聞』夕刊に掲載されたものです>
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