17日間にわたって熱戦が繰り広げられたソチオリンピックが、23日(現地時間)に幕を閉じた。1998年長野大会を除く、国外開催のオリンピックでは初の出場を果たした“スマイルジャパン”ことアイスホッケー女子日本代表は、通算5戦全敗で最下位に終わった。しかし、下を向いている暇はない。最後の7、8位決定戦でのドイツ戦、試合終了の合図は、ソチ大会の終わりを告げるとともに、4年後のスタートを切る合図でもあったはずだ。そして、それはレフェリー中山美幸にとっても、同様である。4年後を見据えた戦いは、既に始まっているのだ。
 メンタル面での素質

「もしもし……」
「中山、オマエ今どこにいるんだ!?」
「えっ!? 自宅ですけど……」
「オマエ、今日はゲームで笛を吹くことになっていただろう! 今すぐ会場に来い!」

 今から10年程前のことだ。この日、中山はラインズマンとしてのデビュー戦を迎えていた。ところが、本人はすっかり忘れていたのだという。あわてて会場に到着した時には、既に試合は始まっていた。中山の代わりをしてくれていた先輩レフェリーとすぐに交代し、中山はラインズマンを務めた。普通なら、頭が真っ白になってもおかしくないシチュエーションである。果たして冷静なジャッジはできたのか……。

「自分ではスムーズにできたかなと思いますね。特にとまどうこともなく、最後までできました。当時は選手としてもやっていましたから、それがいきたのかなと」
 中山にはラインズマンとして不可欠なメンタルの強さ、切り替えの早さがあった。

 周囲からの評価も上々だった。アイスホッケーには“アイシング・ザ・パック”というペナルティーがある。センターライン前から放たれたパックが、一度も選手に触れることなく敵陣のゴールラインを越えた場合、ペナルティーを犯したチーム側のゴールに最も近いスポットからのフェースオフ(審判がパックを落として奪い合う)で再開される。つまり、自陣のゴールに近いところでの再開となるため、不利となるのだ。

 その試合、一度レフェリーがアイシングとジャッジしたものを、中山は「ノー」と叫びながらワンタッチのしぐさをした。レフェリーのいる角度からは見えていなかったが、中山はパックが一瞬、選手に触れているのを見逃さなかったのだ。
「私自身は、特別なことをしたとは思っていませんでした。でも、その場面を見ていた先輩が『あいつ、センスあるな』と言ってくれていたそうなんです」

 中山がラインズマンとしてやり始めた頃からレフェリーやラインズマンとしてペアを組み、指導している高橋裕一は、彼女のメンタルの強さをこう語る。
「彼女がラインズマンとしてやると聞いた時は、正直、『こんなに小さな身体で大丈夫かな』と心配でした。国内では女子だけでなく、男子の試合もしなければいけませんからね。でも、彼女はすごく芯がしっかりしていました。いい意味で気が強くて、何事にも動揺しない。国際大会でも、萎縮することなく堂々としていますよ」
 ラインズマンとしての素質が、中山には備わっていた。

 痛感したジャッジの重さ

 中山自身、ラインズマンとしての自信はある。ポジション取りや瞬時の判断能力、さらにはスケーティング技術やコミュニケーションで用いる英語力など、世界を見ても劣っていると思ったことはほとんどない。実際、10年バンクーバーオリンピックのラインズマンに選ばれ、さらにわずか4人しか選ばれない最終日(決勝、3位決定戦)に抜擢されたことからも、中山のラインズマンとしての能力の高さがうかがえる。

 次なる目標は、レフェリーとしてオリンピックの舞台を踏むことだ。しかし、それは決して容易なことではない。ラインズマンとしては順風満帆に実績を積み上げてきた中山だが、リンクの中のすべての責任を負わなければならないレフェリーには、やはり難しさを感じている。

 そんな中山には、今でも忘れられない試合がある。ある大学の対抗戦で、中山はラインズマンのひとりとしてジャッジを行なっていた。終了間際で、1点ビハインドのチームのパックがゴールに入った。その瞬間、終了の合図がリンクに鳴り響いた。しかし、ここで問題が起きた。シュートしたパックが、味方の選手の足に当たってゴールしたのだが、この時、アイスホッケーでは許されていない蹴る行為があったというのだ。実は中山も蹴ったと判断していた。

 中山はレフェリーに呼ばれた。
「見ていた?」「はい」
「どうだった?」「蹴っていたと思います」
「それは100%?」「はい。私の位置からは100%蹴ったように見えました」
 結局、レフェリーは中山のジャッジを信じ、ノーゴールとした。

 すると、怒り奮闘とばかりに、負けた大学側の選手が中山に詰め寄ってきた。優勝するためには、負けるわけにはいかない試合だったのだ。
「しっかり見てろよ!」「どこ見ているんだよ!」
 それでも中山は毅然とした態度を崩さなかった。自分のジャッジに自信を持っていたからだ。だが、その後、日本アイスホッケー連盟には抗議文が寄せられるなど、収拾には時間を要した。

「今でもあのジャッジに対して後悔はしていません。ただ、改めて難しさを痛感した出来事でもありました。あの試合、スタンドから見ていた先輩レフェリーでも、『明らかに蹴っていた』『とても蹴っているようには見えなかった』と、意見が分かれたんです。それだけ見ている位置によって違っていました。難しさを痛感するとともに、ジャッジする側は自信をもって判断しなければならない。その重要性を改めて感じさせてくれました。と同時に、もっと認めてもらえるようなレフェリーになろうと思いました」

 理想のレフェリー像

 中山には理想のレフェリー像がある。「存在感があって、存在感のないレフェリー」だ。いったい、どういうことなのか。
「先輩から言われたことなのですが、『今日の試合、スムーズで良かったね。でも、そういえば今日のレフェリーって誰だったかな?』と言われるくらいが理想なんじゃないかと。試合を進行するという意味では、存在感は必要だと思うんです。でも、あくまでも主役は選手ですから、試合後には名前さえ出てこないくらいの存在感でいい。逆に目立つということは、それだけジャッジが気になっているという証拠でもありますからね」

 今回、ソチの氷上に立つことはできなかったが、4年後には再びオリンピックの舞台で笛を吹くつもりだ。今度はラインズマンとしてではなく、レフェリーとしてオリンピックデビューを果たす。そして、究極の目標はバンクバーでかなわなかったファイナルゲームでのジャッジだ。そのためには、まだまだ課題は多い。

先輩の高橋は、こう語る。
「レフェリーとしての彼女はまだ発展途上。もっともっと経験が必要です。そういう意味では国内できつい男子の試合でもレフェリーを務めなければならない環境は、彼女にとってはすごくいいことだと思うんです。求められるものが高い分、成長することができますからね。彼女には既に基礎があるわけですから、あとはそれをどう応用していくか。ぜひ、ピョンチャンではレフェリーとしてオリンピックの舞台に立ってほしいですね」

 4年に一度の大舞台を目指して努力する姿が、ここにもある――。

(おわり)

中山美幸(なかやま・みゆき)
東京都生まれ。中学時代はバレーボール部、高校時代はバドミントン部に所属。高校3年の冬、姉の影響でアイスホッケーを始める。大学卒業後は語学留学のためにカナダへ渡り、勉強の傍ら、地元の大学チームでプレーした。帰国後の2006年、都内のチームで活動していた際、連盟からの「1チーム1人」という派遣要望に、自ら志願してレフェリーを兼任する。07年には世界選手権ディビジョン1、08、09年には同大会トップディビジョンのラインズマンを務める。10年バンクーバーでは海外開催大会で日本人女性初のラインズマンとして五輪の舞台を踏んだ。

(斎藤寿子)
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