9日に開幕した「明治安田生命J3リーグ」(J3)を戦うSC相模原にひとり、海外から日本に戻ってきた選手がいる。乾達朗、24歳。2009年にジェフユナイテッド千葉を契約満了で退団し、10年からシンガポールリーグのアルビレックス新潟シンガポール(新潟S)、ウォリアーズFCで計4シーズン、プレーした。11年にはリーグの最優秀若手選手賞、最優秀MF、ベストイレブンに輝いている。乾は今年1月、相模原に入団。サイドハーフ、トップ下で攻撃の中心としての働きが期待されている。
 乾がサッカーを始めたのは小学2年生の時だ。地元のクラブに通っていた友達から紹介されたのがきっかけだった。当時はサッカーをすることが楽しくて仕方がない“サッカー小僧”だった。

 小学5年生になった時には、ジェフ市原(現千葉)のサッカースクールに通い始めた。その頃から千葉県選抜に選ばれるなど、乾に対する周囲の評価は高かった。しかし、彼はまだ「プロサッカー選手になるためにはどうすればいいのかなんて考えていなかった」という。本気でプロを意識し始めたのは、小学6年生の時に千葉県選抜としてスペイン遠征に参加した時だ。
「遠征メンバーに、プロになるという夢を強く持った選手が多くいたんです。彼らと話をしたり、一緒にプレーしたりして、自然と僕も『プロになるためにはもっと練習しないといけない』という風に、プロを意識するようになりました。サッカーに対する気持ちが変わりましたね」

 スペイン遠征後、プロになるために乾が選択したのは、ジェフの下部組織に入ることだった。偶然、スクールの監督がジェフのジュニアユース(JY)の監督に就任することになり、乾はその監督から誘いを受けたのだ。乾はセレクションを通過し、02年、ジェフのJYに入団した。

 別格だった柿谷曜一朗

 JY時代は大会で目立った結果は残せなかったものの、周囲の乾に対する評価は高く、05年、U−15日本代表候補に選出された。ユース昇格後も世代別代表にはコンスタントに招集され、モンテギュー国際大会(フランス)、サニックス杯国際ユースサッカー大会(日本)に参加。世代別代表では、柿谷曜一朗(C大阪)、工藤壮人(柏)、齋藤学(横浜FM)など、現在のA代表にも選ばれている選手たちともプレーした。その中で、乾が最も印象に残っているのが柿谷だという。

「初めて一緒にプレーした時、何をとっても柿谷には勝てないと思いました。それまでずっと必死にサッカーをやってきたにも関わらず、『これだけ差があるのか』と。自分もドリブル技術や、ボールを受けてから相手を1人、2人といなすことに自信があったんですけど、そこも勝てなかった。もっと、やらなきゃなと思いましたね」

 また、国際大会では世界とのレベルの差にも衝撃を受けた。モンテギュー国際大会で、U−16日本代表は同コートジボワール代表と対戦した。体格の違いも大きかったが、乾が感じたのは「個人のプレーエリアの広さ」だった。乾が正確にボールを扱える範囲が、自分自身を中心にして半径1.5メートルほどとすれば、コートジボワールの選手はその「3〜4倍の広さ」があったという。また、日本でやっている時は相手の足が届かない位置にボールをコントロールしても、コートジボワールの選手たちにとっては射程圏内だった。
「足の長さや瞬発力など、身体的な差が大きかったとは思います。しかし、僕は相手のように体格が大きくすることはできない。ですから、プレーエリアを広げるために、とにかく技術を上げるしかないと感じました」

 結局、乾は「AFC U−16選手権」や「FIFA U−17W杯」など主要大会のメンバーには選ばれなかった。悔しさはもちろんあった。しかし、「単純に力が足りなかった」と素直に実力不足を認め、クラブに戻って練習に励んだ。その成果もあり、乾は高校3年生(07年7月〜8月)の時に出場した「日本クラブユース選手権大会」で2ゴールを挙げ、チームの3位に貢献。大会後には、トップチームへの昇格を告げられ、目標であったプロへの扉を開いた。

 ジェフにとってユースからのトップ昇格は3年ぶりだった。乾は高校3年生の時に、グロインペイン症候群(サッカー選手に多く、体幹から股関節周辺の筋や関節に痛みが生じる)を発症し、しばらくプレーできない時期があった。その影響でトップチームへの練習参加は数えるほどだった。それでも彼を必要としたチームの期待の高さがうかがえた。

 プロにこだわり、シンガポールへ

 08年、乾はジェフのトップチームの一員としてスタートを切った。しかし、彼は間もなくして「ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブス」(ジェフR)の選手として登録された。ジェフRはトップチーム、サテライトチームの下にある若手選手を育てるためのいわばトップチームの予備軍。カテゴリーはJFLで、アマチュア選手との混成チームだった。トップチーム予備軍と言えば聞こえはいいが、トップチームと練習する機会はほとんどなく、トップの監督がジェフRの試合を視察に来ることも少なかった。サテライトの試合に招集されることもなく、トップチームの首脳陣にアピールするためには、ジェフRで結果を残すしかなかった。 

 乾は08年シーズンが33試合3得点、09年は21試合2得点という成績だった。しかし、この間にトップチームから声がかかることはなく、09年シーズン終了後、彼はクラブから契約満了を告げられた。「まさか」の心境だった。乾は小学5年生から10年間在籍してきたクラブを去ることになった。

 悔しさもあったが、「とにかくプロとしてプレーを続けたい」という思いからすぐに行動を起こした。Jクラブのセレクションや選手会が主催するトライアウトも受験した。しかし、乾に声をかけるチームはなかなか現れなかった。乾はしばらく個人で体を動かし、セレクションに備える日々を送った。

「その時は、サッカーをしていても全く楽しくありませんでした。チームが決まるのか不安でしたし、セレクションを受けに行っても、契約してもらうためにはどんなプレーをすればいいのかがわからなかった。焦るばかりでしたね」

 だが、捨てる神あれば拾う神ありだ。10年2月、乾の携帯電話に知らない番号から連絡が入った。新潟Sの社長だった。新潟SはJ1・アルビレックス新潟の下部組織で、シンガポールのサッカーのレベルアップ、選手の国際経験の充実化を図ることを目的としているチームである。
「ぜひ、ウチのチームに来てほしい」
 思いがけない誘いだった。乾は新潟Sと全く接点がなかったからだ。なぜ、彼に新潟Sからオファーが来たのか。

「実は、新潟Sの社長がトライアウトを見ていたらしいんです。でも、その時は話もしていません。また、電話がかかってきた時、すでにシンガポールリーグは開幕していたんです。おそらく、チーム状況を見て、僕のような左利きの攻撃的な選手を補強したいと考えたのではないでしょうか」
 乾は当時の状況をこう分析した。契約はプロ契約。彼は「プロとしてサッカーができる場を与えてもらえるなら頑張りたい。シンガポールに行きます」と入団を即決した。

 シンガポールの場所もよくわからなかったという乾だが、突然の海外移籍に不安はなかったのか。
「当時は早くチームを決めたいと思っていましたから、不安を感じる余裕もなかったというのが本音ですね(笑)。でも、新潟Sはスタッフも選手も日本人で構成されているので、そこまで心配事はありませんでした。ジェフ時代の先輩もいましたからね」

 新潟S社長から連絡を受けた後、乾はすぐに身支度を整え、未知なる土地・シンガポールへと発った。

(後編につづく)

<乾達朗(いぬい・たつろう)>
1990年1月30日、千葉県生まれ。ジェフ千葉Y―ジェフ千葉―新潟S―ウォリアーズFC―SC相模原。小学2年でサッカーを始める。小学6年時には千葉県選抜としてスペイン遠征に参加。中学からジェフ千葉のジュニアユースに所属。ユース昇格後の07年には、クラブユース選手権で3位となった。08年、ジェフのトップに昇格。その後はジェフRに登録され、2年間、プレーした。10年からシンガポールリーグの新潟Sに移籍。11年には最優秀若手選手、最優秀MF、ベストイレブンを受賞した。12年から昨季までウォリアーズFCでプレー。今季からSC相模原に加入し、4年ぶりに日本でプレーしている。選抜・代表歴は千葉県選抜、千葉県国体選抜、U−15日本代表候補、U−16代表、U−17代表(07年は候補)。ドリブル、パス、クロスの質が高い技巧派レフティー。精度の高いセットプレーも武器。身長170センチ、64キロ。背番号26。

(文・写真/鈴木友多)
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