「私たちはルールの番人ですから」。詰め寄る記者に、審判委員幹事(当時)の三宅享次は、落ち着き払った態度でそう言い切った。その言葉に、隣席の林清一も深くうなずいた――。
 1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)−豊田大谷(愛知)の試合後、甲子園史上初の“延長サヨナラボーク”宣告をした球審・林のジャッジが物議を醸した。翌日、スポーツ紙の一面には林の顔と名前が掲載され、高校野球連盟には林への抗議の電話が殺到した。だが、それでも自らが行なったジャッジに、林の気持ちが揺らぐことはなかった。そこには、審判員としての信念があった。
 悲劇と化したフェアなジャッジ

「ボーク!」
 球審の林が両手をあげると、甲子園の空気が一変した。5万人が見つめる中、林はスススッとマウンドに向かって歩を進め、ピッチャーとキャッチャーの間に入って三塁走者を指した。そして、生還を促すジェスチャーを2度、繰り返した。延長15回。3時間半を超える大熱戦に終止符が打たれた瞬間だった。

 炎天下の中始まったその試合は、2−2のまま延長に入ったが、両校ともに得点を挙げることができず、なかなか決着がつかなかった。迎えた延長15回裏、豊田大谷はヒットと相手のエラーで無死一、三塁と、一打サヨナラのチャンスとした。ここで宇部商は次打者を敬遠し、満塁策をとる。無死満塁。ここまでひとりで投げ続けてきた宇部商の2年生エース藤田修平は、ボールカウントを2ストライク1ボールとして、追い込んだ。そして勝負の211球目を投げる……はずだった。

 キャッチャーのサインを確認した藤田は、セットポジションに入ろうと、腰部分に構えていた左手を下ろし、右手のグラブに収めかけた。ところが、藤田はその左手を再び腰へと戻してしまったのだ。左足はプレートから外されてはおらず、明らかな投球モーションの中断である。ボークが宣告され、三塁走者が生還。3時間32分の熱戦は思いもよらない幕切れとなった。

 この“延長15回サヨナラボーク”は、多くの高校野球ファンには“悲劇”と映った。試合後、林は記者に囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。ほとんどが、藤田に同情を寄せるような内容だった。林は「藤田くんがプレートを外さずに、動作を中断した。明らかにボークでした」と繰り返し説明した。それでも「注意でも良かったのでは?」と食い下がる記者もいた。収拾がつかない場に幕を引いたのは、同席していた三宅の言葉だった。
「我々はルールの番人ですから、それはできません」
 林はようやく記者から解放された。

 お茶の間を納得させた言葉

 しかし、相変わらずお茶の間では“悲劇”のまま、林への否定的な意見が蔓延していた。まるで犯人扱いされる林を救ったのが現在、巨人の監督を務める原辰徳だった。当時、野球解説者だった原は、テレビのスポーツ番組に出演した際、こう言ったのだ。
「あれは完全なボークです。的確にジャッジした審判員を、私は称えます」
 この言葉で林への世間の見方が変わった。

「それまでは世間の風当たりは非常に冷たかったんです。ところが、原監督がテレビでそう言ってくれたおかげで、逆に『よく、ボークをとった』なんて言われるようになったんですよ。本当にありがたかった。今でも原監督に会うと、あの時のお礼を言わずにはいられないんです」

 そして、林はこう続けた。
「選手たちが一生懸命にやっているからこそ、我々審判員も真剣にジャッジするし、情に流されることなく、容赦なくペナルティを与えるんです。それが審判員の務め。あの時、ボークをとっていなかったら、私は審判員をやめていたと思います」

 2013年7月、林は32歳となった藤田とともに、明治大学阿久悠記念館の来館者3万人を記念して行なわれたトークイベントに出演した。実に15年ぶりの再会だった。そこで2人の秘密が明かされた。“あの日”ボークを宣告された藤田は試合後、持っていたボールを球審の林に渡そうとした。勝利チームに記念として渡されるのが通例だからだ。だが、林は「そのまま持っておきなさい」と受け取らなかったという。かつて林も甲子園を目指した高校球児だった。藤田の気持ちは痛いほどわかっていたに違いない。だからこそ、投げることを許されなかった211球目、そのボールを藤田から奪うことはできなかったのだろう。そして、それが審判員の林に許される精いっぱいの情だったのではないか。

 判定に限らない審判員の役割

 審判員は何もペナルティを与えることだけが仕事ではない。選手の気持ちを和らげ、持っている力を十分に出せるような工夫もしているのだ。
「例えば、9回2死で代打に送られた選手のほとんどは、足が震えているんです。球審に自分の名前を告げるのに、緊張のあまり『代打、僕です』なんて言う子もいる。そんな時は、やさしく『名前は何て言うの?』と聞いてあげるんです。そうすると『あっ、○○です』と答える。『じゃあ、深呼吸して、2、3回バットを振ってね』と言って、たいして汚れてもいないホームベースをはきながら、少し時間を与えてあげるんです。その子にとっては、最初で最後の舞台かもしれない。いや、もしかしたら野球人生最後の打席になるかもしれないわけですからね」

 そして、こう続けた。
「そんな子に、いい加減な気持ちでストライクやボールをジャッジすることはできませんよ。それは地方大会の初戦でも同じです。我々審判員は選手が気持ちよくプレーできるようにすることが何より重要。だからこそ、どんな試合でも真剣に、ルールに乗っ取ったフェアなジャッジをしなければいけないんです」

 林がそんな風に思えたのは、甲子園の審判員を務め始めてから、約10年が経った頃だったという。それまでは、自分のことで精いっぱい。とにかくミスのないようにしなければいけないという思いが先行していたからだ。
「最初は、軽い気持ちで審判員を引き受けたんです。ところが、やればやるほど大変だということがわかった。ミスをしないのが当然で、ちょっとでもミスをすればスタンドから『林! へたくそ!』って、名指しで容赦なく罵声を浴びせられる。帰り道、涙が出るくらい悔しくてね……」

 そんな時、林がいつも思い出す言葉があった。
「名前を覚えられないのが名審判」
 日本のアマチュア野球界きっての名審判であった、郷司裕からの訓示だった――。

(後編につづく)

林清一(はやし・せいいち)
1955年5月25日、東京都生まれ。小学5年の時に、友人らと「調布リトルリーグ」を結成。6年時には近隣4市の選抜チームで全国優勝を達成した。同年米国で行われた世界大会でも優勝する。早稲田実業高校に進学し、投手として活躍。2年春には関東大会で優勝した。3年夏はエースとして期待されるも、肩を故障し、外野手として出場。都大会決勝で敗れ、甲子園出場はかなわなかった。早稲田大学、大昭和製紙では打撃投手、マネジャーとしてチームを支えた。31歳で父親が経営する林建設に入社後、知人からの依頼で審判員を務める。東京六大学野球リーグ、高校野球、社会人野球と、27年間にわたる審判員生活で約1200試合を裁いた。2004年には日本人で唯一、アテネ五輪の審判員を務める。12年に審判員としての現役を引退後、一般財団法人日本リトルシニア中学硬式野球協会理事長となる。

(文・写真/斎藤寿子)
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