人が人を裁く。これほど難しいことはない。うまくいって当たり前、ミスでもしようものなら、一身に非難が集中する。4年に1度のW杯ともなれば、なおさらだ。
 主審の西村雄一が迷うことなくレッドカードを掲げたのは、2010年の南アフリカ大会準々決勝のオランダ対ブラジル戦、後半28分の場面だ。ブラジルのMFフェリペ・メロが、オランダのFWアリエン・ロッベンを故意に踏みつけた――。西村はそう判断した。
「実際、踏んだ瞬間を見たわけではないのです。ただメロのヒザの角度が不自然だった。あぁ、これは間違いなく踏んだなと……」。証人はプレー映像だった。後で確認すると、メロは倒れたロッベンの太ももを明らかに踏みつけていた。

 驚嘆したのはレッドカードを掲げた瞬間の西村の心拍数である。体に装着していた心拍計では、後半28分の心拍数に極端な上振れが見られないのだ。プレーが止まっていたことだけが理由ではない。専門家によると、興奮して心拍数が上がったままカードを出す主審が少なくないなか、西村の落ち着きぶりは際立っているという。昔風の言い方をすれば、「心臓に毛が生えている」のだ。ある意味、驚異とも言える心拍数は西村の自己抑制能力の高さをも示していた。

 重要な場面で、いかにして自分を見失わず、平常心を保つか。日本人として初めてW杯決勝の審判員にも選出された西村によれば、「こんな大事な試合」と意識することは、むしろ逆効果であり、努めて冷静に振る舞うことによってしか、満足するパフォーマンスは得られないのだという。

 いつだったか、西村はこう話した。「僕は試合前、まずはこれまでお世話になった人たちの顔を思い浮かべます。皆さんに支えられて、今の自分がある。こうしてレフェリーを続けていられることの幸せを再確認するんです。そして、自らの心に、こう言い聞かせます。“準備はできている。これまで積み重ねてきた努力を表現しよう。さぁ始めようか”と…」

 現在、日本には約19万人のJFA公認審判員がいる。うち男子の国際審判員は16人。西村はその頂点に立つ。今回のW杯では副審の相楽亨、名木利幸とトリオを組む。彼らもまた「日本代表」である。“サムライの笛”を世界はどう聞くか……。

<この原稿は14年5月28日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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