「キャトルズ・ジュイエ」(革命記念日)を2日後に控えたパリ市北部のスタジアムには7万5000人の観客が集まった。フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」がスタジアムを包み、無数のトリコロールが薄暮の空を支配した。
 試合前にはフィールド上で「イヴ・サンローラン」のファッションショーが開かれた。ピッチは竜宮城に早変わりした。地上の美を一点に集約したようなあでやかな光景に、フランス人のサッカー観、すなわち「花火のような輝き」が重なった。
<この原稿は2002年発行の『ワールドカップを読む』(KKベストセラーズ)に掲載されたものです>

 守りを重視するエメ・ジャッケ監督の戦術に、異議を唱えつづけてきたフランス唯一のスポーツ紙『レ・キップ』は、チームを初の決勝に導いたジャッケの手腕をしぶしぶしながら肯定する立場に追い込まれながらも、しかし、最後まで主張を曲げなかった。
<我々は優勝の先にある「目的」をこの目で確認するため、この試合を見るのだ。そしてそれこそはフランスのスポーツの希望なのである>

 午後9時3分、キックオフ。

 ブラジル、史上2度目の連覇なるか。フランス、悲願の初制覇なるか。モロッコのベルこら主審のホイッスルがパリの薄暮の空に鳴り響いた瞬間、20世紀最後のファイナルの幕が開いた。「青」と「黄」のユニホームが緑のキャンパスの上で激しく混濁した。

 開始早々、フランスは果敢に攻めた。1本の縦パスに抜け出したFWのギバルシュが体勢を崩しながらもオーバーヘッドキックを放った。たったひとつのプレーながら、このゲームにかける「ブルーズ」(フランスチームの別称)の意気込みがよく表れていた。

 3分にはエースのジダンが素晴らしい個人技を披露した。ジョルカエフとの芸術的なパス交換からギバルシュにつなぎ、フィニッシュに結びつけた。
 ブラジルはアウダイール、ジュニオール・バイアーノの両センターバックの動きが鈍く、フランスの速い仕掛けに翻弄され続けた。中盤の主導権争いも「組織」のフランスが「個人技」のブラジルを上回った。

 フランスにはディフェンスの要であるブランの出場停止というハンディがあったが、代役のルブフの冷静なプレーぶりが不安を打ち消した。6試合でわずか5失点という安定した守りが、チームの最大のバックボーンであるということを裏付けた。

 リズムがつかめないとはいえ、ブラジルは随所に王国の煌を披露した。
 22分、中盤でボールを回し、左サイドのロナウドへ。超人の左足は角度のない位置から確実にゴールマウスをとらえたが、GKバルテズにおさえられた。
 24分にも、ブラジルは青一色のスタンドに沈黙を強いた。レオナルドの左CKを長身のリバウドが戻りながらヘッドで合わせた。惜しくもGKの正面をついたが、ブラジルはにわかに攻撃のリズムを取り戻したかのように見えた。

 そのわずか4分後のことである。プティの右CKをジダンが頭で合わせた。スルスルとゴールエリア付近に上がってきたジダンは、体をひねるようにしてニアサイドにシュートを突き刺した。華麗な足技を持つジダンが珍しく頭から飛び込んだ。ジダンは点を取った直後も鬼のような形相を一瞬も解かなかった。

 試合後、彼は語った。
「ワールドカップで何としてもゴールを決めたいと思っていた。ヘッドはあまりうまくないんだけど、走りこんだところにボールがきたんだ」

 ジデディーヌ・ジダン。ニックネームは「ジズー」(ZIZOU)。アルジェリア移民を両親に持つ26歳は、マルセイユ北部の決して裕福ではない移民街で生まれ育った。
 フランス大会ではロナウドと肩を並べるプレーヤーと呼ばれながら予選リーグのサウジアラビア戦で退場処分を受け、2試合出場停止になるなど、司令塔としては不本意な働きぶりといわざるをえなかった。

「将軍」ミシェル・プラティニの再来と呼ばれるほどのプレーヤーながら、彼の存在を快く思わない勢力もあった。たとえば移民排斥運動を続ける極右政党、国民戦線(FN)はメンバー22人中、他民族の両親を持つ選手が過半数の12人にのぼることを問題し「両親が国歌も満足に歌えないチームが、本当に代表チームと言えるのかね」と非難した。ちなみに国民戦線はフランス南部を中心に、かなりの支持を受けて、党首のルペンは事あるごとに“多民族軍団”を槍玉に挙げた。

 私が知っているだけでも、ジダン=アルジェリア系移民、ジョルカエフ=アルメニア系移民、デシャンとリザラズがバスク人、カランブー=ニューカレドニア系移民、デサイー=ガーナ系移民、テュラム=グアドループ系移民、トレゼゲ=アルゼンチン系移民。このモザイクのような人種構成はフランスの国の現状と酷似しており、リベラリストの間からは「代表チームの成否はフランスの未来を占うカギになる。ゆえに結果を出さなくてはならない」との声も上がっていた。そして、その移民政策の成否を占う象徴こそがジダンだったというわけである。

 民衆のほとんどはこのアルジェリア系移民に好意的な視線を向けていた。「ジズー」というシュプレヒコールには救世主を迎える時のような祈りにも似た期待がこもっていた。
 サウジ戦でのレッドカードに対する民衆のレフェリーへの怒りは試合に勝ってもおさまらなかった。挙句、彼は2試合もバスチーユの檻につながれ、出獄して本物の“革命闘士”になった。

 ロスタイムに入った46分、ジョルカエフの左CKを、またしてもジダンが頭で合わせた。今度ばかりは鬼のような形相を解いて、チームメイトと抱き合う。無数のトリコロールが蜂起し、「ジズー」という地響きのような民衆の革命の遂行を後押しした。

 この夜、ジダンはリベルテ、すなわち自由の大切さを身をもって証明した。トリコロールの左端、青の部分は彼の活躍によって塗り潰された。

(後編につづく)
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