「何でこんなにも緊張しないんだろう」。村岡桃佳は、自分自身に違和感を感じていた――。
 2014年3月8日、村岡にとって初めてのパラリンピックがロシア・ソチで開幕した。村岡のパラリンピックデビューは大会3日目のスーパー大回転だった。いつもならスタート直前まで吐き気をもよおすほどの緊張感に苛まれる彼女だが、その日はなぜかリラックスしていた。村岡はそんな自分が不思議でならなかった。
「今考えると、それ自体がもう普通ではなかったんだと思います」
 この後、思わぬ結末が、村岡を待っていたのである。
(写真撮影:阿部謙一郎)
「あぁ……!」
 村岡の滑りを見守っていた日本人スタッフや選手たちが、思わず肩を落としのは、村岡がスタートして54秒後のことだった。彼女に何か起こったのか……。だが、村岡自身はそれまでと変わらず、レースを続けた。そして、途中棄権することなく、ゴール。なんとかデビュー戦を完走した安堵の表情を見せながら、村岡はコーチの元へと寄って行った。すると、思いも寄らない言葉が耳に入ってきた。
「オマエ、旗門通過したか?」
「えっ……!?」

 一瞬、目の前が真っ白になった。だが、冷静に考えてみると、思い当たる場所があった。
「実は、右ターンをした後、次の急斜面に入るところの左ターンの旗門が見えなかったんです。それで『あ、見えた』と思ったのが実際はアウトポールだったのですが、その時はインポールだと思い込んでいたので『あれ、なんで1本しかないんだろう。レース前のインスペクション(コースの下見)ではアウトポールもあったはずなのに……おかしいなぁ』と思ったところがあったんです」
 それこそが、不通過した場所だった。村岡は旗門不通過で失格となった。

「いやぁ、やっちゃいました(笑)」
 メディアが待機するミックスゾーンで、村岡はそう言って笑った。ショックの大きさを隠すには、笑うしかなかったのである。村岡を妹のようにかわいがり、スタンドで見守ってくれていた先輩たちの前でも、必死で泣くのをこらえた。だが、選手村に帰り、部屋に戻ると、もう我慢することはできなかった。
「おいで」
 そう言って、部屋で待ってくれていた女性スタッフが両腕を広げると、村岡はその胸に飛び込み、悔し涙を流した。

 初めてのパラリンピック、しかもデビュー戦での失格である。なかなか気持ちを切り替えることができなかったのも当然だろう。村岡はショックを引きずったまま、大会5日目の回転に出場した。スーパー大回転が行なわれた2日前の晴天がまるで嘘のように、その日は雪が降り、霧がたちこめるという悪天候に見舞われた。昼間だというのに、照明をつけなければならないほど視界不良の中を滑らなければならなかった。

「もうミスは許されない」
 そんな心境の中、村岡は1、2本目を完走し、9位という結果だった。悪天候の中、入賞まであともう一歩という滑りに、少しは手応えを感じていたのではないか。だが、その予想は見事に外れた。
「まったく自分の滑りができず、単に守ることに集中したに過ぎないレースだったので、気持ちが晴れることはありませんでした。2レースを終えた時点では、後悔しか残っていませんでした」
 村岡に残されたソチでのレースは、大回転のみとなった。

 最後に取り戻した“自分らしさ”

「せっかくパラリンピックに出場したのに、このまま何も得ることができないまま終わらせることはできない」
 村岡がそう考えたのは、翌日にアルペンスキーの最終レース、女子の大回転を控えた日のことだった。
「ソチは私にとって初めてのパラリンピック。だからこそいろいろと吸収したいと思っていたのに、悔しさしか残っていない状態で終わらせるのは嫌だと思ったんです。最後のレースは転倒してもいいから、思い切り自分の滑りをしたい、そう思いました」

 だが、村岡には気がかりなことがあった。家族のことだった。実は村岡の家族は回転と大回転を観る予定だった。ところが、回転は悪天候のために日程が早まり、村岡の家族は観ることができなかったのだ。そのため、最後の大回転が家族にとって村岡を観る唯一のチャンスとなっていた。「それなのに、途中棄権でゴールする姿を一度も見せることができないというのは、現地にまで駆けつけてくれた家族にあまりにも申し訳がない」と村岡は案じていたのだ。

 レース前日、村岡は家族に会うことができた。その時、意を決したようにこう言った。
「明日は転んでもいいから、いつものように思い切り滑ってくるね」
 すると、家族からはこんな答えが返ってきたという。
「好きなように滑ってきなさい」
 その言葉で、心の中のモヤモヤがスッと消え、村岡は最後のレースへと集中力を高めていった。

 翌日、女子の大回転が行われた。アルペンスキーの最終日とあって、スタンドには多くの観客、そして既にレースを終えた選手たちが集まっていた。そんな中、村岡は朝から緊張していた。
「レース前に緊張するのは、いつもの通り。ようやく本来の自分に戻っているなという思いはありました。ただ、それにしても緊張の度合いが今までに経験したことのないほど大きかったんです」

 しかし、スタートバーの前に立った瞬間、村岡はいつものようにスイッチが入った。
「思い切り滑り切ろう」
 村岡がまず最初にポイントとしていたのは、1ターン目だった。「ここさえ、思い切りいくことができれば、勢いに乗れる」。そう考えていた。

 1本目、村岡には怖さがあった。だが、それでも1ターン目をスピードをつけて乗り切ることができた。「よしっ!」。ソチに来て初めて手応えを感じた瞬間だった。その後も大きな溝でボコボコに掘れている急斜面などをクリアし、ゴール。6番目の位置につけた。
「正直言って、メダルには届かないかなと。でも、だからこそ2本目はもっと攻めて、自分の滑りをして終わりたいと思っていました」

 2本目、スタートから勢いよく飛び出した村岡だったが、途中の急斜面でスピードがアップし、無意識にセーブしてしまったという。終盤、そのことに気づいた村岡は「これじゃ、ダメだ」と気持ちを入れ直し、最後は思い切ってゴールへと向かっていった。

「あぁ、やっとできた……」
 ゴールした瞬間、村岡はほっと胸をなでおろした。結果は5位入賞だった。
「決して満足のいく滑りではなかったけれど、いつものように自分の滑りをすることができた。ようやく『やり切ったな』と思うことができました」

 現場に駆けつけてくれた同室の女性スタッフに抱きつかれた瞬間、涙が止まらなかった。
「終わったんだ、と思ったらほっとして、泣いちゃいました」
初めてのパラリンピックは涙に始まり、涙に終わった。そして、4年に1度の世界最高峰の舞台を経験した村岡の心には今、新たな気持ちが芽生えている――。

(後編につづく)

村岡桃佳(むらおか・ももか)
1997年3月3日、埼玉県生まれ。正智深谷高校3年。4歳の時に横断性脊髄炎を患い、下半身麻痺で車椅子生活となる。小学2年から車椅子陸上を始め、主にトラック競技で国内大会に出場する。中学3年時には全国障害者スポーツ大会で100メートル、200メートルの2冠に輝いた。2011年の冬から本格的に競技としてアルペンスキー(座位)を始め、昨年12月のノルアムカップのスーパー大回転で銅メダルを獲得。今年1月のW杯カナダ大会では大回転で初優勝を達成する。ソチパラリンピックではスーパー大回転、回転、大回転に出場。大回転では5位入賞を果たした。

(文/斎藤寿子)
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