「Be you(君らしくあれ)」――フルタイムレフリー平林泰三が、今も大事にしている言葉だ。平林にこの言葉を贈ったのは、世界トップ3のレフリーとして長年君臨したニュージーランド人のコリン・ホークだ。
「当時、レフリーマネージャーだったコリンさんに、そう言われたんです。『人のまねをする必要もないし、特に気を遣う必要もない。君は君らしくいなさい』と。レベルが高くなればなるほど、レフリーの世界も厳しくなる。だから最終的には人がどうとかではなく、自分自身を持っていないとダメなんだ、ということを教わったんです」
 アジア人初のフルタイムレフリーとなって、まだ1年にも満たない頃のことだった。
 平林にとって初めての国際マッチは、2005年、南アフリカで行われたU−19W杯だった。テレビで観たことのある世界のトップレフリーが集う舞台は、平林にとっては絶好の学びの場だった。
「こんなすごい人たちのレフリングを間近で見ることができるんだ。よし、いろんなことを吸収して帰ろう」
 まだ実績のない者が積極的に学ぼうというのだ。普通に考えれば、その姿勢は、褒められはしても、マイナスにとられることはまずない。

 ところが、だ。大会も終盤にさしかかったある日、平林はコリンに意外なことを指摘されたのだ。
「日本はディベロップネイションズだし、君がトップレフリーのようになりたいと思うのはわかる。でも、人のことは気にしなくていい。自分らしくいなさい」

 その言葉で、平林は大事なことに気づかされた。
「当時の僕は、端から人から教わることしか考えていませんでした。だから、大会に入る準備をほとんどしていかなかったんです。自分の強みと弱みを把握したうえで、じゃあ、初めての国際マッチでどうしていきたいのか、大会期間中にどういうふうに自分を伸ばしていくのか、といったことをまったく考えていなかった。完全に受け身の状態。そういう気持ちが、態度にあらわれていたんでしょうね。それをコリンさんは見ていたんだと思います」

 それは平林が「1番目の師匠」と呼ぶ川崎重雄の訓えにも通ずる。川崎が最も重視しているのは「準備」だ。それは世界の舞台においても、やはり変わらないということである。

 後輩に受け継がれた21年越しの夢

 平林の幼少時代からの夢は「イングランド代表として6カ国対抗に出場し、聖地トゥイッケナムのピッチに立つこと」だった。「イングランド代表」ではないが、「6カ国対抗に出場」「トゥイッケナムのピッチに立つ」は正夢となった。まず、叶ったのは聖地トゥイッケナム・スタジアムだ。2006年、平林は南アフリカの海外遠征100周年記念大会に招聘され、南アフリカ代表とイングランド代表との試合でマッチオフィシャルとしてピッチに立った。100年以上の歴史をもち、8万2000人を収容することのできるスタジアムの中央に身を置いた気分はどうだったのか。

「正直、何も沸かなかったんです。高揚感も緊張感も……。多分、すべてが初めてのことで、わからないことばかりだったからかもしれませんね。でも、その2年後、2回目に行った時は逆にものすごく緊張しました。どんなにすごいところかということを1度体験していましたし、周りのレフリーからもそれなりの目で見られますからね」

 この時、本人よりも喜んでいたのは「師匠」の方だったようだ。川崎である。実は川崎は1度、トゥイッケナムのピッチに立ったことがある。1985年10月、日本ラグビー協会が行なったレフリーの海外研修の派遣先だったのだ。当時、川崎は33歳。
「いやぁ、すごいスタジアムで圧倒されたことを覚えています。あの時、“いつか、自分もここで笛を吹きたい”と思ったものです」

 それから21年後、川崎自身は叶わなかったものの、自らが指導した後輩の平林が、トゥイッケナムのピッチに立ったことを耳にした時、川崎はこう思った。
「思いは持ち続ければ、世代が変わっても受け継がれて、いつか必ず実現できるものなんだな……」
 平林が聖地で笛を吹いたのは、川崎が研修で訪れた時と同世代の31歳だっただけに、当時の自分と重なり、余計に感慨深いものがあったのだろう。

一方、平林自身は自らが聖地に立ったという歓喜よりも、トゥイッケナムの伝統の重みを感じていた。
「試合後、アフターマッチファンクションというパーティーがあるのですが、普通は開催地のラグビー協会のネクタイがもらえるんです。でもその時は、イングランド代表からはイングランドを象徴するバラをあしらった、しかも“Taizo Hirabayashi”という名前入りのカフスをいただいたんです。さらに南アフリカの協会からは100周年を記念してつくられたプレーヤージャージ。どちらにも伝統の重みがずっしりと感じられました」

 6カ国対抗での歴史的瞬間

 一方、1世紀以上の歴史をもつ6カ国対抗のレフリングを務めたのは、翌年の2007年3月のことだ。スコットランドのマレーフィールド。スコットランド最大のスタジアムで、W杯では何度もホストスタジアムとなっている場所だ。そこでイタリア代表vs.ウェールズ、スコットランド代表vs.フランス代表の2試合でタッチジャッジ(線審)を務めた。幼少時代からテレビで観て憧れ続けてきた歴史ある大会。それだけでも十分に光栄なことと感謝の気持ちを抱いていた平林だったが、スコットランド戦では思わぬ光栄にあずかった。なんとゲーム開始前、ピッチに一列に並ぶ両チームの代表選手と審判団の前に英国王室のアン王女が現れ、ひとりひとりと握手を交わしたのだ。

「Is it cold enough for you?」
 アン王女にそう声をかけられた平林は、一瞬、返事に迷った。予想外の言葉だったからだ。
「確かに、3月のスコットランドはものすごく寒かったんです。だから『日本から来たあなたにとっては、ここはとても寒いですか?』というような意味なのかな、と不思議に思いながら、“Yes,mom.”と答えたのですが……」

 帰国後、それが英国独特の表現だったことがわかったという。
「イギリス人の友人に、『アン王女に“Is it cold enough for you?”って言われたんだけど、どういう意味?』って聞いてみたんです。そしたら、英国では最大級の歓迎の言葉として使われるものだったんです。それを聞いて、どんなに光栄なことだったかを改めて感じました」
 平林のレフリー人生における “歴史的瞬間”だったことは言うまでもない。

 さて来年、2015年はラグビー界にとって世界最高峰の舞台が待ち受けている。4年に一度のW杯がイングランドで開催されるのだ。1987年の第1回大会から、これまで7大会連続出場している日本だが、第3回以降は勝利の味を経験していない。だが、2011年以来、日本代表の強化スタッフも務める平林は、チームに手応えを感じている。

「日本が世界に追いつくには、すべての面において3割不足しているんです。確かにそれを埋めることは容易なことではありません。でも、決して不可能なことではない。しかも今、その3割を埋めるスピード、つまりレベルアップのスピードは、世界で一番速いと思っています。強化スピードがグングン加速しているんです。おそらくスーパーラグビーを経験している日本人選手が増えてきていることが要因のひとつに挙げられると思います。彼らがジャパンにもたらしているものは大きい。他の日本代表も彼らから多くの刺激を受けていることは間違いありません」

 そして、こう続けた。
「僕は来年のW杯で、日本がベスト8に入る可能性は十分にあると思っています。冗談ではなく、本気です。それほど彼らの成長スピードは目覚ましいものがあります」
 レフリーという公平な立場で世界のラグビーを知る平林だからこそ、感じるものがあるに違いない。果たして、ラグビー発祥の地で“ジャパン旋風”は巻き起こるのか――。「楽しみにしていてください」。そう語る平林の目には自信が満ち溢れていた。

(おわり)

平林泰三(ひらばやし・たいぞう)
1975年4月24日、宮崎県生まれ。5歳で父親がコーチを務めていた宮崎少年ラグビースクールに入る。宮崎大宮高校卒業後、レフリーを目指す。宮崎産業経営大学1年時にC級ライセンスを取得。2年時から豪州に留学し、ブリスベーンのGPSクラブでプレーする傍ら、レフリングを学ぶ。帰国後、日本IBMのコーチングスタッフを経て、2005年に日本、アジア初のフルタイムレフリーとなる。06年、31歳の史上最年少でA級ライセンスを取得。U−19およびU−21のW杯でのレフリー経験を経て、07年には欧州6カ国対抗戦でタッチジャッジを務める。

(斎藤寿子)
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